私を読む人
机の上に設置した卓上マイクに向かい、音声編集ソフトの録音開始ボタンをクリックする。画面に表示された文章を読み始めると、編集ソフトの音声波形が左から右に流れて行く。
読み進めていると、単語の意識が薄れてきて、歯切れが悪くなってくる。徐々に声質がこもり、喉が乾いてくる。やや擦れた声で文章を読み終わり、録音停止ボタンをクリックする。
深呼吸してから、編集ソフトの再生ボタンをクリックする。マウスを動かす音がパソコンのスピーカーから聴こえて、息を吸い込む音の後に、私の声が聴こえてくる。すぐに歯切れが悪くなり、徐々に声質がこもってくる。声が擦れ始めて、なんとか乗り切ろうとした箇所を越えて、私の声は終わる。
文章の気になる箇所を修正し、再度読み上げる声を録音する。再生された声を聴いて、文章を修正する。何度か繰り返して、これ以上修正できないところまで辿り着き、文章は完成する。
マウスを動かしてフォルダの中に保存されているテキストファイルを新たに開く。画面に一文が表示される。
私は愛される価値のある存在だ
この一文を声に出して、何度か読んでみる。椅子に座る姿勢を正して、マイクを意識する。マウスを動かして録音開始ボタンをクリックする。
「私は愛される価値のある存在だ」
「私は、愛される価値のある存在だ」
「私は、愛される、価値のある存在だ」
「私は、愛される、価値のある、存在だ」
録音を停止して、ゆっくり呼吸しながら、再生ボタンをクリックする。
ノイズを拾いながら読み上げる私の声を聴く。内容は同じだが、句読点の位置によって、受ける感じは変わる。
録音したデータを一度削除して、姿勢を正してマイクに向かう。マウスを動かして録音開始ボタンをクリックする。
「私は、愛される価値のある存在だ」
録音を停止して、保存ボタンをクリックする。ファイル名を「私は.mp3」にしてフォルダに保存する。マウスを動かして録音開始ボタンをクリックする。
「あなたは、愛される価値のある存在だ」
録音を停止して、保存ボタンをクリックする。ファイル名を「あなたは.mp3」にしてフォルダに保存する。
机横のフックにかけてあるワイヤレスヘッドホンを手に取り、Bluetooth接続ボタンを押して両耳に装着する。パソコンとの接続音が聴こえて、雑音が一瞬にして消える。保存した音声ファイル「私は.mp3」をダブルクリックすると、ヘッドフォンから私の声が聴こえてくる。
「私は、愛される価値のある存在だ」
リピートボタンをクリックして、繰り返し私の声を聴く。
「私は、愛される価値のある存在だ」
読み上げる声は、確かに私の声なので、私が読み上げていると思う私がいる。その私は、私の声を聴いている私と、読み上げている私が一致していると思っている。繰り返して何度も聴いていると、読み上げている私と、私の声を聴いている私が、ズレているような気がしてくる。「私は、愛される価値のある存在だ」と読み上げている私と、「私は、愛される価値のある存在だ」という私の声を聴いている私が、違う存在のように思えてくる。私の声が読み上げている文章中の「私」は一体誰のことなのか。
停止ボタンをクリックして、私の声を止める。マウスを動かして、フォルダの中にある音声ファイル「あなたは.mp3」をダブルクリックする。
「あなたは、愛される価値のある存在だ」
「あなたは、愛される価値のある存在だ」
読み上げる私の声が、私に語りかけてくる。私が、私に語りかける。私の声が言う「あなた」は私のこと、なのだろうけど、読み上げる私の声が言う「あなた」は、私のこと、だったのだろうか。
「あなたは、愛される価値のある存在だ」
読み上げる私の声を繰り返し聴いていると、だんだんと腹が立ってくる。この腹立たしさは、一体なんなのだろう。なぜ腹が立ってくるのだろう。私が、私に向かって、あなたは、と語りかけているだけなのに、私とあなたが一致しないような気がする。読み上げている私は、確かに私であったのだけれど、今の私とはズレがある。読み上げる私が語りかける、あなた、という言葉は、私に向かっているのだけれど、読み上げる私と、今の私は別々に存在する。今の私が、読み上げる私に、洗脳されているような気持ちになったのかも知れない。読み上げる私に「あなたは愛される価値のある存在だ」と、なぜ言われなければならないのかと。
・・・
ここまでの文章を読み終わり、録音停止ボタンをクリックする。さて、どんな感じに録れたのか。録音された私の声を聴くのは、楽しみでもあり、恥ずかしくもある。
マウスを動かして、再生ボタンをクリックする。パソコンのスピーカーから、私の声が聴こえてくる。
<了>