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私が知る、ある昭和25年に生まれた女性人生

皆さんこんにちは。なんでもライター空唄(Sorauta)です。

「note」 でのライティングを9月半ばに始めてそろそろ1ヶ月半ほど過ぎようとしています。

自由に自分勝手に思いついた事を散文的にWebライティングできる「note」が存在していた事、出会えた事にとても感謝しています。

さて今日は、

とある女性について。


彼女は、昭和25年に生まれました。父親の祖父は栃木県小山から、明治政府の外務官僚をするために本郷にきた一家で、母親の実家は山形県酒田の商屋でした。

夫婦は東京都中野区のお菓子工場を営み、彼女は3姉妹の末っ子です。

仮に「なつ」さんとしておきます。

一家と工場は併設していました。父親は「現場親方」みたいなもの。母親は「切り盛りする女将さん」の様な関係で、3姉妹は工場従業員から見ると「お嬢ちゃま」のような関係性でした。

工場で作られていたのは主に

「ロシアケーキ」

と言われるボリュームのあるクッキーでした。

現代日本と違い、ロジスティクスや経済力に乏しい食糧難の時代に、

「安くて美味しくてお腹いっぱいになるお菓子」

はとても重宝されました。

今もその味はこちら、「栄光堂製菓」さんで楽しむことができます。

そんなお菓子の「久助」を店の外れで地元の人にも更に安く販売していて、

その家族は繁盛しました。

ただし残念だったのは、「男性」が生まれなかった事。

お父さんはとても優秀な親方でしたが、「後継者」を育てて引き継ぐ事はできませんでした。

なので今はそのお菓子屋も工場も存在していません。

その女性は線が細く、さまざまな習い事をしました。

「書道」「算盤」「水泳」などなど。

学業もいつも一番。両親は地元の人から離れた杉並区に越境入学をさせたために、

周り近所には一切友達はいなかった。

そんなこんなで彼女は「書道」が好きで「先生」になることを密かに夢見ていました。

ただ、それに強い思い入れがあるわけでもなく、また忙しく家業に追われて生活している両親とそんな話をすることもありませんでした。

学業成績は優秀だったため、彼女は1968年、そのまま付属高校から大学推薦で都内にある

「文学部」

に進学した。

時代はアメリカとソビエト連邦による

「冷戦」

の真っ只中。
日本中の大学で、新左翼と呼ばれる新しさを求めた若者達が活動していた。


世間知らずなお嬢様だった彼女はそこで

「全共闘運動」

のリーダーと出会った。

全共闘運動と70年安保闘争は、1960年代から1970年代にかけて日本で展開された重要な社会運動です。それぞれの特徴について詳しく説明します。

全共闘運動(ぜんきょうとううんどう)

全共闘運動は、1960年代に大学を中心に広がった学生運動で、正式には「全日本学生自治会総連合」(全共闘)として知られています。この運動は、学費の値上げや教育の自由、また学生の政治活動を抑圧する大学側の方針に対抗する形で発展しました。背景と発展:
1960年代には、当時の社会情勢(冷戦やベトナム戦争)や日本の経済成長に対する矛盾が学生の不満を助長しました。
学生たちは、自らの権利の確保だけでなく、社会全体の変革を目指すようになり、全共闘が結成されました。
主な活動:
大学の自治を求めるストライキやデモ、さらには大学の占拠行動などが行われました。
1968年には、全国的な学生運動が活発化し、さまざまな思想や流派が生まれました。


70年安保闘争(ななじゅうねんあんぽとうそう)

70年安保闘争は、1960年に締結された日米安全保障条約(安保条約)の改定を巡って起こった大規模な抗議運動です。この闘争は、特に1969年から1970年にかけて激化しました。背景:
初回の安保条約締結に伴う不満がくすぶる中、1960年に改定が行われることが決まりました。
日本国内では、アメリカの影響力や基地問題に対する反発が強まり、多くの市民や学生が反対運動に参加しました。
主な活動:
大規模なデモ行進や集会が全国で行われ、特に1969年から1970年には、さまざまな社会運動団体が連携して大規模な抗議が展開されました。
これらの運動は、労働組合や市民団体とも連携し、政府に対する強い圧力をかけました。


結果と影響

全共闘運動と70年安保闘争はいずれも日本の政治や社会に多大な影響を与えました。これらの運動は、後の世代の活動家や社会運動にインスピレーションを与え、社会的な意識や市民運動の重要性が高まるきっかけとなりました。

両者とも、権利意識の高まりや政治参加の重要性を浮き彫りにし、日本の現在の政治的風景にも影響を及ぼしています。特に、70年安保闘争は日本の外交に関する市民の意識を変える大きな契機となりました。

ChatGPT「全共闘運動」と「70年安保闘争」


全共闘のリーダーだった彼だったが、次第に各大学では暴動や反乱が起こり、徐々に死者や逮捕者が出ていった。

やがて彼は全てのリーダーの保釈金をある方法で生み出した後、ある会社からのオファーを潔く受けて、全ての活動から離れた。

彼の理想、彼は目的を果たしたために不要な利権を持ち続ける思想は彼の中には存在しなかった。

やがてその会社は日本の中核を成すグループへと変容していった。

彼は、新聞記者やゴーストライターなどをしながら生計を立てて、「なつ」が大学を卒業した3年後、世帯を持ち3人の子宝に恵まれた。

国際勝共連合(こくさいしょうきょうれんごう)は、1968年に創設された国際的な政治団体で、主に韓国の宗教団体である統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と関係があります。以下に、この団体の概要と目的について説明します。

概要創設: 1968年、韓国の宗教指導者である文鮮明(ムン・ソンミョン)によって設立されました。
目的: 主に反共主義を掲げ、共産主義の拡大に対抗するための国際的な連携を目指しています。また、彼らは「平和と繁栄のための共通の価値観」を促進する役割を果たしています。


活動内容政治・社会活動: 国際勝共連合は、政治的な活動として、各国の議員や政治家との連携を図り、共産主義への対抗を強調しています。また、自由主義的な価値観を広めるために様々なフォーラムやイベントを開催しています。
教育と啓発: この団体は、講演会やセミナーを通じて、反共産主義や国際的な協力の重要性についての教育活動も行っています。
国際ネットワークの形成: 世界各国に支部を持ち、国際的なネットワークを形成することで、反共産主義運動を広めています。


影響と批評

国際勝共連合は、一部の国や地域で影響力を持っている一方で、その活動には批判もあります。特に宗教団体としての側面や、特定の政治イデオロギーに基づく活動について賛否が分かれています。

この団体は、冷戦時代の影響を受けた反共主義の代表的な存在の一つであり、今でも国際的な政治情勢や市民運動に影響を与える存在として活動を続けています。

ChatGPT 国際勝共連合とは?

70年安保闘争が過ぎ、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした後も、

日本赤軍や、革マルやら、浅間山荘やらと事件は続いていった。


それはまるで、

「三年B組金八先生」の「世情」

そのものの様に。

当然、「GHQとCIAによる日本国」を生きるなつの夫はいつも苦杯を舐めて這いずり回る様な人生だった。

お嬢ちゃんとして育ったなつも、貧困の中で必死に子供達の健康に育てる事に集中した。

そして時はバブル崩壊した1992年、

日本のバブル崩壊は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて発生した経済現象で、日本経済に大きな影響を与えました。以下に、その背景、原因、影響、そして結果について詳しく説明します。

背景バブル経済の発生:
1980年代は、日本経済が急成長を遂げていた時期であり、特に土地や株式市場が過熱しました。
1985年のプラザ合意以降、円高が進んだことで、日本の輸出企業は苦戦しましたが、同時に国内の投資が活発化しました。


原因金融政策の緩和:
日本銀行は、1980年代後半に低金利政策を実施し、資金供給を行いました。このことが、土地や株式への投資を促進しました。
投機的な投資行動:
投資家や企業が不動産や株式の価格上昇を期待して高額な投資を行ったため、価格が急騰しました。
過剰な信用供与:
銀行が高リスクな貸し付けを行い、企業や個人が過剰に借入を行ったことも、バブルの要因となりました。


崩壊と影響バブル崩壊の発生:
1990年を迎えるころ、金融引き締め政策が進められ、金利が上昇しました。この結果、土地や株式の価格が急落し、バブルが崩壊しました。
影響:
経済的影響: 多くの企業が経営危機に陥り、バブル崩壊後の1990年代には景気後退が続きました。この時期は「失われた10年」と呼ばれ、継続的な不況とデフレが問題となりました。
不良債権問題: バブル崩壊に伴い、多くの金融機関が不良債権を抱えることになり、企業の倒産や失業が増加しました。
社会的影響: 経済の停滞により、若者の就職難や生活水準の低下など、社会的な課題が顕在化しました。


結果と教訓

バブル崩壊は、金融政策や投資行動の重要性、リスク管理の必要性を浮き彫りにしました。また、経済成長の過程での過剰な信用供与や投機的な構造について深く反省する契機となりました。日本はその後、経済の立て直しを図るために様々な改革を行い、現在に至っていますが、バブル経験は今なお多くの教訓を提供しています。

ChatGPT日本経済のバブル崩壊について

結婚して15年ほど経ったバブル崩壊の風が吹く中、その夫は失踪した。

理由は世間を騒がせた大手グループの巨額不動産詐欺事件の濡れ衣をかけられたためだった。

女一人で、彼の年老いた両親と3人の子供を育てるしか無くなった、彼女は必死に寝ずに働いた。

親戚からは「夜の仕事でもすれば?」と冷たい言葉を投げかけられながら。

幸い、昔取った杵柄があったなつは保険の営業やパチンコ屋の集計など、割りの良い仕事を見つけることが出来た。

食堂の手伝いをして「残飯」を持ち帰り、食べ盛りの子供達の食費も浮かせることが出来た。

そしてその2年後、義父が他界したとき、夫が帰ってくる。

彼は、インドの聖者とのスピリチュアル道を歩むことになる。

そしてなつは、新しいときめきを見つけた。

ネパールの民族音楽バンスリとヒマラヤの子供達の支援だ。

ヒマラヤの風。

彼女にはその周波数が癒しとなった。

それから20年近く、彼女は彼らの音楽と共に人生を過ごしている。

そして2020年、コロナ禍によって全てが変わり始めた地球人類。

彼らの音楽はネパール、日本の友好関係から、

より多くの地球人類と繋がっていっている。

愛と平和への悟りと、自然界の生態系を感じる「風」と共に。


私は地球生命、生態系、精霊、神々は一つであると捉えています。人類が千年先にも続いていく為にも地球生命体との共存共生は、今人類社会を生きる我々全ての責務です。これからも地球規模で、生態系保全や風土に紐づいた文化、生態系資源を未来へ繋ぐの活動を、皆さんと共に共有して生きます。