ただ生きているだけではダメですか?
私のアパートの階下にはとある東南アジアの技能実習生たちが暮らしている。
1階には部屋が2つあって、1部屋に2人ずつ住んでいるから、4人の男の子が住んでいるのだけれど、時々女の子の友達や仕事仲間の子が来たりして大騒ぎしていることもある。
真夜中まで騒音が続くわけではないから、そう気にはならないのだが、なんと言っても匂いが我慢ならない。
夕飯時窓を開けていると、お国特有の料理の匂いがプーンと風に運ばれて上階までやってくる。窓だけでなく、ドアまで開けて料理しているからたちが悪い。
こちらはもうだいたいその匂いが来る時間が分かっているから、家中の窓という窓を閉めるのだが、ほんの少しの隙間を伝って匂いがやってくる。閉じても閉じても追いかけてくるこの匂い。
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世の中生きているだけでお金がかかるし、ただ単にありのままに生きるということはさせてもらえないみたい。
嫌な情報も普通に生活しているだけで入ってくるし、煩わしい人間関係をゼロにすることもできない。
生まれた瞬間から誰かに監視され縛られ見えない巨大な何かから逃れられずにいるようだ。
いったいこの世界のどこに逃げ場があるんだろうか。
逃げ場とされてきた芸術や娯楽施設憩いの場なんかもどんどん無くなって、余白とか余剰とかいうものも減りつつある。
この間九州のある街を訪れて、このコロナ禍で閉店している店が多数並ぶ寂れた商店街を歩いた。
在りし日のこの地の物語を思ったが、夫の扶養に入ることを選択し、労働はもう一定額までにしようと決めて、経済活動にギリギリまでしか関わらないようにしている分際で、閉店をかわいそうだと思うことは失礼だし、自分が偽善者のように思えた。
確かにかつての日本は活気があった。景気が良く、モノが売れ、大量生産大量消費で24時間働けますかの世界。
その真っ只中のサラリーマンだった義父は70歳を超えた今でも一流企業で再雇用者として働いている。土曜も出勤しているらしい。
仕事をなくしたら趣味がないからと言って嬉々として職場に向かっているようだ。
とにかく生産せよ。繁栄こそが全て。ビルドアンドビルド。そこに上手く乗れる人は良いけれど、私みたいにそこにいちいち疑問を感じたり、上手く乗ることができない人間はどうすれば良いのだろう。
自ら退場していく外ないのかと思って、毎日高速の大きな鉄の塊に身投げする人のニュースを見てはため息をついてしまう。
教育も新学習指導要領(公立私立問わず日本の教育の指針となるもの)では、知識偏重の既存のものを再現する力だけでなく、自ら考えてモノを生み出していける力が必要だとうたっているけれど、やはりそれって凡人には難しいのでは?と思ってしまう。誰かが「こう!」と決めたものに無批判にしたがって、それなりの対価を得られた方が楽だから。
ここまで書いていると、じゃあどうすれば良いのかという話だけれど、私なりの考えとしては各人が最低ラインで生きれば良いのかなと思う。
最低ラインというのは人によって違う。「ここまではできるけれどここからは無理」というラインが高すぎるぐらいに高い立派な人だっているのだ。
無理はしない。最低限の消費生産。逃げても良い。昭和世代からしたらもっと欲を持てと言われるかもしれないけれど、これで良い。これが私なりのベスト。
このアパートも今月末で退去します。