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【読書note】 介護の先にあるもの

その瞬間、母が微笑んだーー。

介護支援の施設でお世話になり始め、3カ月ほど過ぎた頃のこと。
診察のために連れて行った病院から施設に戻った時だった。

乗用車に乗っていた母を車いすに移し、連れて行った玄関では職員の方々が到着を待ってくれていた。

「お帰りなさい」

出迎えを目にした母は、朝からずっと私たちに見せていた苦虫を嚙みつぶしたような表情を、その日初めて一変させ、にっこりと笑ったのだ。

確かに、家族さえ何カ月も顔を合わせることが許されない、コロナ禍のさなかではあった。認知症の進行も手伝って、夫のことも娘のことも「家族」という概念さえも、母の中には残っていなかったのかもしれない。

それでも、家族ではなく職員の方に笑顔を見せた母の姿は、私に大きな衝撃と罪悪感を与えるに十分だった。

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そんな出来事がフラッシュバックのように蘇った、第一章の冒頭。そこから、認知症のケアを伴う介護生活へ少しずつ入っていった母の様子が、ページを繰るたび目の奥に浮かんでは消えてゆく。

時折、はさまれている著者自身の介護中の話も手伝い、戦場のようだった当時の在宅介護に心を揺さぶられたり、時に懐かしさをおぼえたり。

そんなことを繰り返しながら、ようやっと読了までたどりついた一冊だった。

手にした時、心を惹かれたのは「海で介護すること」というサブタイトルだった。

「海で介護?」

読み始めてすぐその意味はわかるのだが、読了を果たした今、改めて振り返ると「介護」の話でも、書籍の帯に記されている「逝き方」の話でもないと思った。すべての人に当てはまる「生き方」の話だと感じたのだ。

今の日本の介護制度は、要介護者が「生きること」に前向きに取り組める制度ではない。

入浴、排せつ、着替え、食事といった、人としての必要最低限の生活を支え、命をつなぐためのサポートだ。

心臓がその役割を終えるまでの日々を、生き長らえるための支援というべきか。

要介護者が日々の生活の中で「楽しさ」や「わくわく」「生きがい」を感じたいなら、制度外のサポートとして手を貸してくれる人や仕組みを、自力で探さなければならない。

制度に携わる介護事業者たちに、制度外の手助けを届けたいという思いがあっても、実際に形にすることは難しい。

この書籍に登場する介護施設の経営者は、制度内の支援施設でありながら、その「制度外」にも取り組んでしまう。要介護者の想いに、寄り添うのではなくつなぐのだ。

要介護の状態であっても、趣味活動に取り組みたい人には趣味に付き合い、寝たきりであっても外出したい人や自宅で最期を迎えたい人には、周囲からどんなに反対や非難をされようと、その想いを実際の行動につないであげてしまう。

「海での介護」も、そんな活動のひとつだった。

病を抱える要介護者は、磯釣り(いそづり)が趣味。岩の多い海岸や岩礁で釣り糸を垂らすため、釣りの中でも特に危険を伴う。介護が必要な身では、とうてい一人で続けることなどできないアクティビティだ。

それを、かなえてしまうのだ。万一の場合をも想定し、万全の介護体制を整え、一緒に磯釣りを楽しんでしまう。

いよいよ体が動かなくなるその時まで、生きがいとも呼べる時間に満たされながら、「生き切った」想いと共に人生を終える要介護者の様子が記されていた。

介護とは、人としての必要最低限の生活を支え、命をつなぐためのサポートなのだと、何の疑問を抱くことなく思っていた。

しかし、要介護者が欲する「楽しさ」や「わくわく」に気付き、「生きがい」を感じてもらうことも、いや、感じてもらうことこそ「介護」なのではないか。

そして、目に見える行動のサポートだけを「介護」と呼んでいては、いちばん後悔するのは、実は身近にいる家族なのではないか。

そう思うようになった。

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あの日、施設の玄関で職員の人たちに見せた微笑が、記憶に残る母の最後の笑顔になった。

趣味と呼ぶほどの楽しみを持たなかった母だったが、童謡や唱歌を聴いたり歌ったりすることが好きだった。

新しいCDデッキを買って、もっと家で聴かせてあげればよかった。
少しぐらい部屋が散らかったままでもいいから、一緒に歌う時間をつくればよかった。

そうしたら、私たち家族にももっとたくさんの笑顔を残してくれたんだろうか。

要介護者に「楽しさ」「わくわく」「生きがい」を感じさせてあげる介護は、後に残される家族のためのサポートでもあるのかもしれない。 (終)

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「波の章 海で介護すること」
高橋雄大  著/PHPエディターズグループ



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