それは「literacy」なのか
先日、大学院の同期とオンライン飲み会をしました。彼らとは在学中もその後も定期的に会い続けていて、コロナがここまで大事になる直前も一緒に旅行した仲です。私も彼らも共に教育と文学を学んできましたが、私だけまちづくりの仕事に就き、彼らはみな私立の高校や大学で教えています。今回は彼らと考えた「literacy(リテラシー)」と教育のお話を備忘録として。
□教育現場でのオンライン
教員にならなかったとはいえ、私も「学校以外にも教育はある」という思いで仕事をしているため、常に教育を考える環境にいる彼らとの話は、どんなに真面目モードになっても刺激的で楽しいです。緊急事態宣言後から時々こうして話をしてきましたが、その都度教育現場でどのような検討をし、判断し、策を打っているのかを聞くことができ、とても勉強になります。
一方で、東京の私立学校と地方の公立学校では、対応のスピード感と充実さにこんなにも差があるのかと思うと、教育格差を感じずにはいられないのも現実です。地方には地方の良さで周辺環境から学べることもあるだろうし、都会にはできない学びの場もあったでしょう。先生の熱意や経験でも生徒たちに残る教育もできたと思います。しかし「外に出てはいけない」「リモートで対応」となり、環境もなければ触れ合いもなくなった時、そこにはこれまでと異なるスキルやツールが求められるようになります。
実際彼らの職場の優秀なベテランさんでも、新たに必要とするスキルに苦戦している方や実力を発揮し切れないでいる方がいるようです。教室ではウケていたことも画面越しだとすべってしまったり、というのも難しいところだそう。同じ空間にいる時の魅せ方とは異なる魅せ方ができる教員の方が上手になってしまうのも否めず、動画を編集できたり、背景を合成できたり、挿入音を入れることができたり、チャット形式でのやり取りが早かったり・・・という先生の方がある意味優位ですよね。もちろん、それだけで評価が下がるわけでもいと思いますが、これまでは必要ではなかった、あるいはすでに取り組んでいた教員の場合はそれが「個性」という扱いで良かったものが、リモート対応では求められる要素になってしまう現状です。
スライドを動画編集し音声を付けて授業にしたり、授業そのものをオンラインでライブ中継したり、オンライン中でチャットでの質問や意見のやり取りをしていたり、クラウド上での意見収集をしたり。私の同期たちはみな優秀なので、それを緊急事態宣言が出された直後から準備し始め、GWが明ける頃には導入できていたのですが、1ヶ月ほど続けた結果口を揃えて言うのは「やっぱり会って直接対面がいいわ」ということでした。
□求められる「literacy」
このコロナが年度の切り替わりに起きたこともあり、学校では学年の変わり目、つまり、教員側からすれば受け持つクラスや担当する学生たちが入れ替わるタイミングでした。継続のクラスはまだ良いでしょうけれど、教員も生徒を覚えることが難しく、生徒はクラスメイトを認識するのに時間がかかります。あるいは大学になると何十人、時には何百人を相手にするため、そもそも画面にも収まり切らず認識できません。
オンラインで学んだことなどに対してコメントを提出させたりしているようなのですが、ゼミや少人数なら問題なく対応できても、人数が多くなればなるほど顔と名前の一致しない学生からの活字コメントを見ることになります。筆跡も顔も分からない、ただ並んだ字を見ながら評価を考えるとなると、自分の言葉もどう届いたか掴み切れず、相手の趣旨も掴み切れないまま評価をせざるを得ないところがあるから、信頼関係も築き上げられていない中、教員側もモチベーションを維持するのが大変そうです。あるいは、生徒を認識できていたとしても、生徒の関心を惹きつける導入を入れよう、工夫を入れようとなった時、画面の向こうでウケてくれているのか、どこかのSNSに笑いのネタにされていないか、などという不安は「気にしてられない」と思いつつもないとは言えないようです。
今、誹謗中傷などに対する注意喚起も起こりSNSのリテラシーが話題となっていますよね。仲間の一人が言いました。「自分に正義があればぶつけていい風朝はいつから?」と。教育の視点からも「メディアリテラシー」を改めて見直し、気を付けていかなければならないということが話題になりました。
□問題は「literacy」なのか
そもそも「メディアリテラシー」とは一体何なのか。というか「リテラシー」とは何なのか。誰もがググって探せるWikipediaさんで確認してみましょう。
ふむふむ、じゃあ「メディアリテラシー」となるとどうなのか。
そういえば、高校の時も「〇〇リテラシー」ってあったなあと思い振り返ると「情報リテラシー」だったのでついでにこちらも。
いざこう並べてみると、分かっていたようで分かっていなかった部分もあったなあと痛感。「メディアリテラシー」は「実践や運動も含む」ということや「情報リテラシー」はどちらかというと「情報を適切に」みたいな意味合いが強いと思っていたものの「自己の目的に適合するように使用できる」というものだったんだ、なんて確認したり。言葉の定義で確認すると、私たちが何気なく使っている言葉にも、見落としがあることに気付かされます。
そしてその上で、今「メディアリテラシー」や「情報リテラシー」が教育上足りていないのか、問題があるのか、という話になるわけですが、SNS問題もこういったリモート上でのコミュニケーションの問題も「リテラシー(=日本語の「識字率」)」の問題というよりも、「イマジネーション(=想像力)」の問題なのではないかと思うのです。
□"literacy"よりも"imagination"
また別の仲間が言いました。「東日本大震災は世界からの関心や支援はもちろんあったけれど、やっぱり日本のことだったんだなと思ったわ。コロナは世界の出来事だもんな」と。そして「あの時も今も共通するのはメディアリテラシーの問題だよな」と。情報が錯綜し、何を信じたら良いのかも分からなくなる中であっても、自ら情報をキャッチし、その趣旨や背景を読み取って、自分なりに判断し、社会に参加していくことができているかどうか、ということです。
私はこの話も踏まえて考えたのですが、先ほどのメディアリテラシーの引用の中で「民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージへアクセスし、批判的に分析評価し」まではある程度できているのだと思うのです(「民主主義におけるメディアの機能」が曖昧なところかもしれませんが)。ただ、「創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力」の中でも特に「創造的に」「異文化を超えて対話」と、それを踏まえた「行動」ができていないのではないかと(自戒も込めて)。
そして、「創造すること」「異文化を超えた対話をすること」については、ソリューションを生み出すための想像力や相手を思いやるための想像力が必要なのではないかと思うと、やはり「想像力」なのではないかと思うのです。だからと言って「問題はメディアリテラシーじゃない」というわけではなく、メディアリテラシーのためにも想像力、というニュアンスですかね。
□まだまだ実践と模索の日々だけど
仕事も教育現場もリモート化していく中で、コミュニケーションがより簡単に、システマティックになるからこそ、これからの社会では、相手を思いやる想像力や情報の批判に留まるのではなくそこから創造をしていくための想像力を養う教育をさらに強化していかなければならないことなのではないでしょうか。なんて、教員じゃない私が言うのも生意気なので、じゃあどうしたら良いんだよと言われてしまうと私が指導要領を作れるわけでもないから無責任なところもあるのですが、アツい同期との対話は、いつか創造に繋がるような気もします。
先生たち程ではないにせよ私のフィールドでもできることはあると思い、自分にこのことを言い聞かせていろいろやっていこうと思っています。最近は、正しく情報を読み取る力を高めようと、日本史や世界史を勉強し直してみたり、仕事が減ってしまっている今を活用してクラウドワークのいろいろなライターにチャレンジしたり。ここまでの話と関係なさそうにも思えるかもしれませんが、まだなかなか動き回ったりできない今、背景を理解することや文字だけのコミュニケーションの中で大切なことを意識すること、そしてリモートの可能性をいろいろ体験しておくことは、必ず想像することに繋がっていくと思い取り組みます。そこでの学びのお話は、また今度。