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"シューショクカツドウ"で、死なないで。


「人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ」
松田優作


「人間は二度死ぬ。」という。

ひとつめは、肉体が滅びた時。
ふたつめは、みんなに忘れ去られた時だという。

ある人は、「死んでも記憶の中に生き続けられるということだ」と、物理的な死に対して、ポジティブに捉えるための言葉として使っていた。

その考え方も、素敵だと思う。

でも、自分は、それ以外にも解釈の余地があると感じる。

私が最初の方で「ひとつめ・ふたつめ」という、時系列的順番を指定しない言葉をあえて使ったのは、上記の解釈で用いられている「肉体の死→記憶/認識の中の死」とは、逆の順番の死もあり得るのではないかと考えるからだ。

"肉体の死"よりも前に来る死があるとしたら、何か。
それは、自分で自分のことを忘れていくことではないかと、
自分は思っていたりする。

自分の感覚や、心の声(心で思っていること・感じていること)を感じられなくなった時、その人の個性だったり、らしさがなくなっていく。
それは「じわじわと死んでいっている」ということもできるのではないか、
と 自分は考えたりもする。

多くの有名人の自死が問題となって久しいが
心が先に死んで、それに体がついてくることだって、往々にしてあるのだ。

「自分のやりたいことをしない/発信しないことの一番怖いことは、
何が好きだったのか、なにをやりたいのか、自分の感覚を忘れること」
とは、ある人が言っていた言葉だ。

自然体(一旦、その定義は置いておくとして)の自分(の感覚・考え)を抑圧しすぎると、自分が、それを忘れてしまう。自分が忘れてしまったら、それが外側に現れることもない。となると、本当(一旦、定義は(以下略))の自分が、周りの人に認識されることもない。
それも認識されうる自分の"死"というものになるのではないか、ということだ。


自分は、こういう自分の感覚を忘れていってしまう人は世の中にたくさんいると思うし、"就活"がそのきっかけを作ってしまう物になりうるのではないか、と肌感的に感じている。

というか、感じた。

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就活は、どうしても「とってもらう学生」と「とる(とってあげる)会社」というパワーバランスの崩れた構造になりがちだ。

就職先が決まっていない学生は、「(どこにも就職できなかったら)将来、自分の生活が怪しくなる」という将来に対する不安も抱えながら、面接に向かうことになる。

一方の学生を”審査”する側の企業側は、会社と雇用契約を結んだ社員さん。一応は、自分が会社を辞めない限り・会社から辞めさせられない限り、将来の生活も安定している。生活できるかどうかレベルの未来に対する不安感は、就活をする学生の立場と比べたら少ないだろう。

===

この力の不均衡の中で学生たちは少ないポストをめぐって"争う"わけだが、ほぼ100%聞かれる=必ず用意するものとして、ガクチカがある。

「学生時代頑張ったこと」
この超絶よく聞かれる鉄板質問に、短い時間て効率的に最大限の自分の魅力を伝えて”勝つ”就活面接をするために、戦略を練って、練って、練って、準備を一生懸命する。人によっては暗記までする。

その行動を否定するわけでは全くないが、
自分は、この慣習が、心が死んでいく学生を作る温床になってしまっているのではないかと感じていたりする。

他人に評価されそうなエピソードを選んで、
小さな枠に最大限情報が収まるよう肩書きを多用し、
周りとの「自分すごいでしょ」大会に負けないように
なんかすごそうな言葉を羅列し、、、

自分も、このもやもやを通った。
ESを出す際に一応、ということでエージェントさんにチェックをお願いし、ある「ガクチカテンプレ」的に修正するようにと支持され、とてももやもやした。
アホらしいと思いつつも、
(学生が"できる"範囲には限りがある。本当にものすごく強い志があって何かをやれば別だけど、そうでもないものを自慢げに話すなんてねえとおもいつつも)
そこから逃れられない自分の弱さにイラついた。

就活で使えそうだから何かをやる、という本末転倒な自体でさえも、普通に起こっている。(これに関しては、就活のためにその大切な時間使っちゃっていいの?とおもったり。)


「他人からすごそうに見えるか」という外面を気にしてエピソードを選び、
〇〇ナビや、エージェントの教えてくれるES/ガクチカ勝ちパターンに合わせて、自分バージョンにアレンジして当てはめていく。あとは、ちょこちょこ数字を入れたりして"具体性"を出して...と。

「それは、本当に今のあなた自身を表しますか」と問いたいなと、ずっと思っていたりする。自分の場合はコロナ禍でのオンライン就活で、GDや集団面接はほぼしなかったのでこういう場面に本番で巡り会うことはほぼなかった。しかし、就活を「マウントを張り合うイベント」みたいに感じてしまっている状況は大学1年の時から就活をするまで変わりなかったし、
そいういうのにはあまり関わりたくないなとも思っている。

===

なぜこんな愚痴みたいなノートを書いているかといえば、
就活で心が瀕死になっている人に、踏ん張ってもらいたいからだ。
自分もある時点まで心が瀕死になっていたが、
自分の周りにも心が瀕死状態の友人がいて、
その友人以外にもしんどい思いをしている人が結構いることは知っていて、
「一人ではない」ということを伝えることが
何かの手助けになるかもしれないと思って書いている。


1年前、あんなにいろいろ、ワクワクを語ってくれていたのに
あんなに感性が素敵な子だったのに
就活がおわったあの子と久しぶりに会って
開口一番に話した言葉が、
どこに就職するかとその理由で
どこか、自分に言い訳をするように言っていた感じも、
自分は感じてしまって

絶賛就活中の別の子も
たままた話すことになった時、
元々の要件以外で派生した話のほとんどが
就活関連・それに対する不安の話で

そういう状況を眼前にするたびに悲しくなった。
例えるなら、"シューショクカツドウ"というブラックボックスに入った後
出てきたと思ったら、心がロボ化してたーそんな感覚を感じた。

その心境を話してくれたことに対してとてもうれしく思ったけれど、
そういう状況を作り出しているこの社会構造に対して憤りも感じた。

===

就活との付き合い方は、人それぞれだ。

もちろん、ゲーム感覚で楽しめる、という人もいるだろう。
でも、そうではない人も、確実にいるわけで。
(現に、私はしんどかった。)

捉え方ら能動的に変えて楽しもう、という人もいる。
でも、それがどう頑張っても難しい人もいるわけで。
(もうここら辺は、センスとか向き不向きの問題でもある気がする)

だから、しんどかったら、しんどいで、
「自分はだめだ」という方向にもっていくのではなく、
自分の心/感覚が死なないために、
ほんとうの自分が死なないために、
何ができるかを考えて動いてみるのも、いいかもしれない。



必要な人に、届いて欲しい。

しんどいと感じているあなたの、力に少しでもなったら、幸いである。


(多分、2週間以内くらいに、自分の就活の備忘録と、自分なりの心が瀕死にならないための就活TIPSまとめます。)


===

※ちょっとセンセーショナルなタイトルです、
が、それくらい、就活は(人によって)しんどいものになりえると思っています。
(だから「ごとき」とかいう言葉は使わなかった)
そういう、自分なりの本気で書いてます。


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