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クリスマス,僕はサンタになった
「安易に二者択一的思考を取る者は、原理的には薬物中毒者と同じだ。カテゴライズ思考の罠、フレームワーク病なんてもいうんだったけな。そいつらは特に考えもせず、まあおそらくは考えてはいると思っているのだけれど、とにかく物事をあまりにも単純化してしか考えることができないとこにまで堕ちてしまっている。正義か悪か、白か黒か、とかのあれだ。この思考を取るということは、いわば思考停止に陥っているということと同義であり、それ以上先の真理めいたものは何も生み出すことはできないんだ。実際には正義と正義が争っているわけだし、そういえばほら、白にも200色あるっていってる人がいたよな。
実際は人間の性質もこの世の問題も、複雑に絡みあった様々な事象の全てを考慮に入れて検討する必要があり、それでいて正解という安易な麻薬に手を伸ばすことがなく、思考し続けなければならないんだ。それでもまあ、人間の脳は有限であるし、便宜上意図的に単純化するならそれは戦略と呼ぶんだ。重要なのは、それを無意識で無自覚に行っているのか、意識的に行っているかの違いなんだ。君は中毒者になるな、そしてそうだな、孫子や諸葛孔明であれ。結局は自分に好みと哲学を持てだとか、自分に同情するなとか、それらとほとんどおんなじような意味だよ。」
最後に彼はそう話して、夜には用があるからと勘定をすませ、僕を残してカフェを後にした。彼の話はおおかた理解できたと思うが、それでも今回ばかりはあまり腑に落ちた感覚がなかった。そして彼がいなくなると、ラパパンパンだのラストクリスマスだの、何度も同じような曲が流れ続けるこの空間が、少しばかり嫌になった。それでも、彼が僕に伝えたかったことは一体なんだったのだろうかと、もう少しカフェに残って考えることにした。彼は新しい今日へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった。
例えば「僕はINFJなので一人でいるのが好きだ」などと、そんな安易な思考に陥ることは確かにもうしないであろう。人間の性質、例えば内向か外向さえも、混ぜ合わせた絵の具のような、あるいは虹のようなものであり、「内向的でいることが多い人間」や「内向的性格を志向し矜持を保つ人間」はいても「内向的な人間」はこの世に存在しないのだ。彼の忠告が、MBTIの孕む危険性について批判し、それが麻薬だとするものなのであれば、彼の話は関先生の神授業くらいにわかりやすかったのだ。
しかし、彼の理論をもってしても、僕が今一人でいることに起因する不満足の理由は説明できないのではないだろうか。今回ばかりは、彼も僕を救いきれはしなかったのだと思った。例えば富豪の反対には貧者がいて、彼女がいるものの反対には彼女がいないものがいて、勝ちか負けをつけるなら、その答えは明白ではないだろうか。つまり、この世には明らかに勝ちの要素と負けの要素などが存在し、これは二元的に説明できるはずだ。お金の多さにも幅があり、お金がなくとも幸せな人もいれば、ある一人のガールフレンドを持たずとも幸せな男がいることは理解している。それらを十分に承知したうえでも、彼の理論は今の私の不満足を根本的に解決することはできないように思えたのだ。
何をどう思考しても、僕はクリスマスが嫌いだという結論にしか辿り着けなかった。絶対的には幸せであるはずなのに、街や画面のむこうが「お前は不幸せだ」と僕に囁くので、行き着く先はいつも不満になってしまった。他者軸による評価が否応なしに強調され、クリスマスに彼女もいなければ友達と遊ぶこともない私は、ただそれだけの理由で不幸や負け組という焼印を心に押し付けてしまうのだ。それでいて、確かに私自身の中に「クリスマスは彼女と過ごしたい」という理想がある以上、この焼印を消し去ることはできない。底なしの沼の中で二足での歩行を保つだけの自分軸評価を、僕はまだ持ち合わせていないのだ。
こんな僕を見ても、彼は僕を負け組だとは言わないのだろうか。考えれば考えるほど、自分の不満足に目を向けることになりそうだったので、僕はそこで考えを中断し、カフェを出てマクドナルドでお昼を食べることにした。自分にプレゼントを買ってやらないとどうにもすまないような気になったので、クリスマスのチキンを買ってやることにした。カフェを出る時、僕は席にマフラーを忘れたので一度取りに戻ると、案内役の店員さんはマスクの下から微笑みを送ってくれた。
家に帰ると、僕は机に向かい、15個のナゲットを500円以下で食べられるという幸せを噛み締めた。以前は僕も作っていた、冷凍庫から取り出しては色もなく冷たいまま、フライヤーに放られたナゲットたちは、特別ジューシーでも温かくもなかったが、確かに私に幸せを与えてくれた。新しいホタテのソースもそれなりに美味しかったし、15個全てを自分だけで食べたのは初めてだった。
そうか、僕はやはり、幸せな空間にいる幸せな人間だったのだ。ナゲットを全て平らげ、冷たい水で手を洗うとき、僕はようやく気付いたのだ。今までの人生は、ナゲットを食べる時は常に誰かといたことに気付いたが、今の僕は15個全てのナゲットを独り占めできたことに、この上ない満足を抱いていたのだ。では、僕の幸せを決めるのは、割引されたマックナゲットだったのだろうか。それとも、一人でマックナゲットを食べることだったのだろうか。どうやらそのどちらでもなさそうだと思った。ナゲットはどこまでいっても僕に働きかけようとは機能するが、最終的に僕を操ることなどできないのだ。「つまりそういうことだったのか。」僕はわざとらしく声を出して、口についたマスタードのソースを拭った。僕の幸せを決めるのは彼女の有無でもなければ、割引されたマックナゲットでもなかったのだ。
僕はナゲットのゴミを紙袋に詰めてから、その紙袋をゴミ箱に捨てようとしたが、少し考えてから、やはりその紙袋を今日のゴミ箱として使うことに決めた。そのまま手を洗うと、コートに腕を通して、また外に出た。大切な友人が高熱を出して死にかけていたので、彼の家を訪ねてお見舞いをしてから、今度は最近見つけたばかりのシェアスペースに向かった。ある種の有益なお気に入りに関する情報は、皆に共有したいという感情と、自分だけのものにしておきたいという感情がせめぎあうが、僕にとってはこの空間にも同じような感情を抱いている。4人がけの席に座り、暖かいというよりは熱いくらいのココアを飲みながら、マーケティングのレポートを提出し、会計学の講義を受けて小テストを解くと、眠くなってきたので机に突っ伏して昼寝をした。それからは少しの作業をして営業終了の時間を迎えた。このスペースは部屋を出入りする際に、決まりとしてバーコードを読み取る必要があった。今日の管理人は四川省からきたという中国人のお兄さんだった。僕は今日も中国語が話せることを幸せに感じ、最後に「圣诞快乐」と伝えて外に出た。彼もまた、僕に「圣诞快乐」と告げて見送ってくれた。
家に帰ろうと自転車に乗る時、僕の自転車に取り付けられたはずのスマホスタンドが盗まれていることに気づいた。最後に使った記憶があるのは昨日で、今日は一度も使っていなかったので、この時初めてなくなっていることに気付いたが、それがいつなくなったのかは果たして見当も付かなかった。この時の僕は怒りを覚えるわけでもなければ、なぜか特段悲しいわけでもなかった。代わりに、僕はスマホスタンドを失うと同時に、誰かのサンタになったのだと考えていた。そして、顔も名前も知らないその誰かのことを想像した。僕もほんの少し前までは同じような気持ちでいたので、その心情を一部理解するのには難しくなかった。クリスマスは、ある気づいた時点から、朝起きて枕元にプレゼントは置かれていないし、人々は自分だけを残したかのように幸せそうに見えるのだ。12月の終わりは全体として好きな季節であったが、クリスマスというその1日だけは、不幸せな日であるかのように思えていたのだ。だからこそ今の僕は、その見知らぬ彼だか彼女だかを強く恨むことはできなかった。そして、幾分かの感謝さえも抱いているように思えた。サンタが子供達に与えるプレゼントは、サンタが世界中のありとあらゆるおもちゃ工場に営業をして寄付をもらっているのか、あるいはそれさえも魔法で生み出しているのか、当然僕にはわかるはずもなかったが、少なくともサンタとして生きるのは悪くないのかもしれないと思った。僕はその誰かより幸せで、その誰かに意図せぬ形ではあったにしろ、救いを求められたのだ。それにしてもスマホスタンドは2年前の、決して新しいものではないのに、そして自転車置き場には他にも候補がいっぱいあったというのに、なぜ僕が選ばれたのだろうかと思った。しかし、結果としてスマホスタンドの喪失は、僕にとって僕の幸せの一部になっていたのだ。そして僕は、カフェで彼が話した言葉を突然思い出した。やれやれ、あなたは立派な人ですよ、と僕は思った。同時に僕は彼との間に大きな距離を感じたが、今はその隔たりも忘れることにして、自転車を漕いだ。
結局のところ、今日も彼は例外なく僕を救い、僕に一杯のコーヒー以上に大きなクリスマスプレゼントをくれたということだった。サンタが来ないと嘆くこともできれば、自分がサンタになることもできる、そんな特別なクリスマスという日を、僕はこれからも楽しみたいと思った。そしてまた、21歳のこのクリスマスを、いつか思い出したいと思った。
聖誕節, 成為聖誕老人了 <中文版>
「容易採取二分法思考的人,本質上與藥癮者一樣。也可以說分類思考的陷阱或構架病。這些人對世界上的事情並沒有特別思考,雖然他們可能認為自己在思考,而把事情想得太簡單了。就是正義還是邪惡、白還是黑,那種的想法。然而,採取這種思考方式的人,已經放棄了思考,因此無法創造任何新的,有價值的東西。嚴格來說,正義與正義在互相爭鬥,然後說起來有人也說過,白色可以有200種呢。
事實上,人性的本質和世界上的問題都複雜的不得了,必須考慮到錯綜交織的各種現象。此外還不能輕易地追求所謂的『正確答案』這種鴉片,必須持續思考。儘管如此,人腦是有限的,如果是有意識地簡化,那就是一種策略。重要的是,你是無意識地這麼做,還是策略性地這麼做,就這種差異。你不要成為藥癮者,要成為孫子或諸葛孔明那樣的戰略家。說到底,這和擁有自己的喜好與哲學,或是不要同情自己,都是差不多的意思。」
他說完這些話後,因為晚上有事就結帳離開了咖啡廳,留下了我。雖然我大概理解了他的話,但這次總覺得有些難以接受。他離開後,這個不斷播放著同樣「Rum Pum Pum Pum」或「Last Christmas」這種聖誕歌曲的空間,讓我有點厭煩。儘管如此,我想知道他到底想傳達什麼,所以決定再多留一會兒。他走向新的今天,而我回到自己的泥沼中。
比如說「我是INFJ所以喜歡獨處」這種輕率的想法,我應該確實不會再有了。人的本質,即使是內向或外向這種特質,也像混合的顏料或彩虹一樣漸層的。這世界上只有「很多時間表現內向的人」或是「追求內向性格並保持自尊的人」,但沒有「內向的人」這種絕對存在。如果他的忠告是在批評MBTI的危險性,認為這是一種鴉片的話,他的話就像關老師的神課一樣容易理解了。
然而,他的理論似乎也無法解釋我現在獨處所產生的不滿原因。這次,我覺得他也無法完全拯救我。例如,富豪的對立面是窮人,有女朋友的人對立面是沒有女朋友的人,如果要決定勝負,答案不是很明顯嗎?也就是說,這世界上確實存在明顯的勝利要素和失敗要素,可以清楚地用二元方式來解釋。我知道金錢的多寡有程度之分,沒錢也有幸福的人,沒有女朋友也有幸福的人。但即使明白這些,他的理論還是無法從根本上解決我現在的不滿。
無論怎麼思考,我都只能得出的結論是「我討厭聖誕節」。我知道我應該是絕對幸福的,但街道和手機告訴我「你不幸福」,最終總是讓我感到不滿。「他人的評價」被無可避免地強調,而我在聖誕節既沒有女朋友也沒有和朋友出去玩,僅僅因為這些理由,我便給自己烙上了不幸和失敗者的烙印。然而,確實我心中存在著「想要和女朋友一起度過聖誕節」的理想,因此無法抹去這個烙印。我還沒有在這個無底沼澤中保持直立行走的「自己的評價」。
即使看到這樣的我,他也不會說我是失敗者吧?越想越覺得會讓自己注意到不滿,所以我決定停止思考,離開咖啡店去麥當勞吃午餐。覺得必須給自己買個禮物才行,所以決定買聖誕炸雞。離開咖啡廳時,因為忘記帶圍巾所以又回去拿,服務生在口罩下給了我微笑。
回到家後,我坐在桌前,細細品味著能500日圓以內吃到15個雞塊的幸福。以前我也做過的那些雞塊,從冷凍庫拿出後冰冷無色的,放進油炸鍋裡的雞塊們,雖然不是特別多汁也不溫暖,但確實給了我幸福。新的干貝口味醬也還不錯,而且第一次一個人吃完全部15個。
原來如此,我果然是在幸福空間中的幸福的人啊。吃完所有雞塊,用冷水洗手時,我終於明白了。回想起來,以前吃雞塊時總是和別人一起,但現在的我能獨占所有15個雞塊,感到無比滿足。所以,是打折的麥當勞雞塊決定了我的幸福嗎?還是因為一個人吃雞塊?似乎都不是。雞塊雖然會一直試一試影響我,但最終無法完全控制我。「原來如此啊。」我故意說出聲來,擦掉嘴邊的芥末醬。決定我幸福的既不是有沒有女朋友,也不是打折的麥當勞雞塊。
我把雞塊的垃圾裝進紙袋後,本來想把紙袋丟進垃圾桶,但想了想後,還是決定把這個紙袋當作今天的垃圾桶。就這樣洗完手,穿上外套又出門了。因為我的好朋友發高燒快要死了,所以拿東西去他家後,我去最近才發現的共享空間。對於某些有益的喜歡的信息,總是在想要與大家分享的感覺和想要獨占的感覺之間掙扎,對我來說這個空間也有同樣的感覺。坐在四人座位上,喝著不合適說溫暖,合適說太熱的可可,提交了行銷報告,上了會計課考了小考,困了就在桌上睡了一下。之後做了一些工作就到了打烊時間。這個空間進出房間時都要掃描條碼。今天的管理員是來自四川省的中國大哥。我很開心今天也能說中文,最後對他說了「圣诞快乐」就出門了。他也對我說「圣诞快乐」,微笑著送我離開。
準備騎腳踏車回家時,發現原本應該裝在我腳踏車上的手機支架被偷了。記得最後使用是昨天,今天完全沒用過,所以這時才發現不見了,我不知道什麼時候不見的。這時的我既不覺得生氣,也不覺得很難過。相反的,我想著失去手機支架的同時,也成為了某個人的聖誕老人。於是,我想像著那個不知道的人。因為我直到不久前也有過一樣的心情,所以不難理解那種心情。聖誕節從國中以後,早上起床時枕邊沒有禮物,人們看起來像是把我遺留下似的都很幸福。雖然12月底整體來說是我喜歡的季節,但只有聖誕節這一天,總覺得是不幸的日子。正因如此,現在的我無法強烈怨恨那個不認識的他或她。反而還覺得有些感謝。聖誕老人給孩子們的禮物,是聖誕老人到世界各地的玩具工廠推銷獲得捐贈的呢,還是用魔法製造出來的呢,我當然不可能知道,但至少我覺得成為聖誕老人似乎也不壞。我比那個人更幸福,雖然是無故意,但被那個人尋求救贖。話說回來,我的手機支架是二歲的不是新的,而且停車場裡還有很多其他選擇,為什麼選中了我呢。但是,結果失去手機支架這件事,對我來說成為了我幸福的一部分。這時我突然想起了他在咖啡廳說的話。唉,你真是太厲害的人啊,我對他這樣想著。同時我感受到與他之間的巨大距離,但現在決定忘記這個距離,準備回家。
結果,今天他也一如既往地拯救了我,給了我比一杯咖啡更大的聖誕禮物。我既可以抱怨沒有收到聖誕老人的禮物,也可以成為別人的聖誕老人,我希望以後也能享受這樣特別的聖誕節。而且,我希望將來能夠回憶起21歲的這個聖誕節。