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私たちは本当に「母か便所」から解放されたのか

みなさまこんばんは。

今回のnote、久しぶりに真面目な内容です。なるべく多くの人にシェアしたかったので、主要部分は全て無料公開としました。ほとんど全文無料で読めます。

(最後のプライベートな部分だけは、マガジン購読者様との秘密の会話にしたいと思います)

今回は文字数が多いので目次を設けました。

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  1. 「男にとって女は、母か便所のどちらか」

  2. 田中美津が今なおセンセーショナルな理由

  3. 私たちは「母か便所」から解放されたのか

  4. 便所と心的外傷

  5. 矛盾を受け入れるということ

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1、「男にとって女とは、母か便所のどちらかである」

「男にとって、女とは、母(子を産み育てる)か便所(性欲処理)のどちらかである」

あなたはこの衝撃的な一節をご存知だろうか。

かつて、日本で初めてのウーマン・リブ活動を牽引した、田中美津さんの言葉である。

1970年、田中さんは「便所からの解放」という長文ビラを書き上げた。冒頭の一節は、彼女の活動のマニフェストともなったその伝説的なビラに記載されていたものである。

(ちなみに女性を“便所”と呼び始めたのは彼女ではない。学生運動の時代、性的にアクティブだった女性学生運動家のことを、陰で男性学生運動家が「公衆便所」と呼んでいたことに端を発している)

「(このビラを) 女たちがわーっと取りにきてね。時代を掴んだっ!と思いました」との言葉通り、彼女の言葉や活動は当時の日本の女性の心を大いに動かしたようだ。

田中さんは説いた。

女は男の意識を通じて、母(子どもを産ませる対象)と便所(性処理に都合のいい遊びの対象)とに引き裂かれてきた。そして女は男のこのような二分法(母か便所か)に自分を合わせようとして、自らを裏切り抑圧してゆく。女は“部分”として生きることを強要されている。

つまり【貞淑な妻であり慈愛に満ちた神聖な母親としての女(主婦)】VS【パートナーを定めず性に奔放でいやらしい肉欲対象としての女(娼婦)】みたいな二分である。

母なる女は性欲を持たず従順で献身的で慎み深くいることが求められ、便所なる女はいっときの欲求充足のために使い捨てられるという感じだろうか。子どもを産んだ妻には“母”になって家にいてもらい、家事育児をしてもらう。自分の性欲は外にいるそれ専用のセクシーな性欲処理機に向ける。それが彼女が生きた時代の男による女の用途別カテゴライズである、ということだ。

そして女性も、男性社会の中で、男性によるカテゴライズの下、無意識的に自分の在り方を矯正し抑圧して生きて行かざるを得なくなっている。と田中さんは考えた。

でも私は、子を産み育てる貞節な「母」にも、性的対象としての「便所」にもなりたくない。「母」も「便所」もともに男のイメージの中に生きる女であって、“自分”がどこにもない。私は“私”を解放し、“私”を生きられるようになりたい。

何代にもわたって封印されてきた女たちの怒り、悲しみを私たちの代で終わらせたい。

それが、1970年代、田中美津さんが強く願ったことだった。


2、田中美津が今なおセンセーショナルな理由


ここまでの彼女の主張はとてもよくわかるし、普遍的(?)な女性の苦しみとして理解しやすいのではないだろうか。

「女を男の付属物として見ないで」
「性欲処理の対象(モノ)としてでなく、自我を持った1人の人間として接して欲しい」
「家事育児を女性だけに押し付けて家に縛りつけるのはやめて」

それは世界中の女性の多くに共通する祈りの言葉と言っていいだろう。

※補足
(日本でウーマン・リブが起こった1970年代とはどんな年だったのか。実は世界的にもジェンダー平等、性差別撤廃のうねりが本格化してきた時代だ。米国や北欧など主要国の多くは女性の社会進出に伴って男性の家庭的責任(育児や家事への参加)を認め、子育て支援や保育所の整備も進んだ。一方の日本では、女性が労働力として社会進出を許されたとて、そういった支援や整備は乏しく、家事育児(特に育児)は女性の仕事として押し付けられ続けた。結局女性は子育て優先で正規雇用の椅子を手放すしかなく、安い労働力としてパート勤務せざるを得ないというケースが多かったようだ。この頃は日本も経済成長が安定しており、夫1人が仕事に集中して稼げば十分に家庭を養えたこともこういった流れの背景にあるのだろう。そしてその経済成長の影には、女性の安価な労働力という貢献が大いにあったと思われる。)

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しかし、田中美津さんが50年たった今もなお注目を集め続けるのは、彼女が日本のウーマン・リブを牽引した人だからという理由だけではないように思う。今回私が彼女について調べているときに惹かれたのは、以下のような言葉である。

「嫌いな男にお尻は触られたくないけれど、好きな男が触りたいと思うお尻はほしい」

「男からはかわいいと思われたい部分があるし、職場なんかでは女としてかわいいかどうかで云々されたくないしサ」

つまり彼女は、男性の性欲の捌け口になることを拒否しつつも、“女性が主体としての性欲・セックスアピールを持つ”ことは肯定したのである。彼女は一連の活動の中で、「われわれは、女の解放を、性の解放として提起する」と説いた。

「好きな男性には可愛らしい女性として、性の対象として見られたい。でもそうでない男性には性的な目で見て欲しくない」

一見複雑な主張だが、その核にあるのは、“女性側が主体性・選択権を持つ”ということである。

だから田中さんはデモに参加する女性はスカートやヒールを履いてイヤリングをつけてお化粧していてもなんら矛盾しないとした。女性が自ら望む女性らしさについては、彼女は否定していないのである。

女性には母性もあるし性欲もある。神聖で慈愛に満ちた存在であると同時にアグレッシブでエロティックな存在でもある。頭ではジェンダーの平等を求めて戦っていても、実際は好きな男が現われればその男のために尽くしたいと思ってしまう。従属し奉仕する陰湿な喜びを感じてしまうことすらある。そんな自分に葛藤する女性の矛盾や苦悩を、田中さんはずっと感じていたのだ。

「○か×か対立させて考えるのではなく、矛盾した自分をまるごと肯定するところから出発する。それがリブの一番いいところだったのではないか」

と、のちに田中さんは語っている。

この、矛盾や葛藤を含めて「ありのままの女」だとしたのが、彼女が今なおセンセーショナルである理由だと私は考える。

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彼女の人生を紐解くと、実は彼女自身がその矛盾に苦しめられてきたことがわかる。インタビューで語られているが、彼女も幼少期、顔見知りの男性から性被害を受けたことがあったのだ。5歳の時、両親の営む店の従業員の男にキスされ、性器を触らされたという。彼女は当時それをどう解釈していいかわからず、悪いものとも思っていなかった。どこかで性的なときめきや楽しささえ覚えていたという。しかし、ふとした時に何気なく母親に話したところ大問題になり、厳しく叱られるその従業員を見て、「母があんなに怒ることを楽しんでいたなんて自分は悪い子だ」と自責の念にかられた。「自分は汚れている」と苦しむようになったのである。

これは私の意見だが、性加害というのは、被害者をただ物理的・精神的に傷つけるだけではない。被害者が自然に備えている性的興味や欲求を不適切かつ卑劣な方法で引き出し悪用することこそ、この加害の最も残酷で卑劣な部分であると思うのだ。

加害者によって痛みや恐怖はもちろん、本来生物として持っていた自然な性的快感や興奮を引き出されてしまったこと(平たく言うと、頭では絶対に嫌だと思っているのに物理的な刺激を与えられることで体の反応として濡れてしまうとか)は、被害者にとっては大変な侮辱なのである。魂を貶められる攻撃なのである。それはたとえ体の傷が癒えても、魂の傷としてずっと残る。そしてその後の人生を、自分がまるで共犯者であるかのような罪悪感を抱いて生きていくことになる。「(それに応じた)自分は加害者と同じくらい汚い」と自分を責めるようになるのだ。

この辺は、現代の性加害・性被害を理解する上で忘れられがちな点じゃないかと思う。「だってお前も感じてたじゃん」「君の体は反応してたよ」と口にする加害者は、自分が犯した罪についてあまりに無知であると言えるだろう。


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田中さんに話を戻すと、彼女もその自責感、傷つき、そして「なぜ自分だけが」という疑問を抱えて長年苦しんできたのだと思う。このウーマン・リブは、彼女が彼女の人生に対して出した答えでもあったのだ。

「私を救いたい、私が解放されたい、私からの出発。可哀そうな誰かや差別のために頑張るのではなく、私のために頑張ることが世の中全体を変えていくことにつながるんだ」

と、彼女はインタビューで語っている。

嫌いな男にお尻は触られたくないけれど、好きな男が触りたいと思うお尻はほしい」。問題は男性にお尻を触られることではなくて、そのお尻の所有者が女性であり、誰に触らせるかは女性が自分で決められるということなのだ。

「誰にも触られないようにお尻を隠して生きろ」というのは誤った結論である。「このお尻は私のお尻。誰に触らせるか、どう使うかは私が決める」というのが、彼女のウーマン・リブの答えだったのではないだろうか。


母親的・家庭的な面もあって、かつ性にもオープンであってよい、というのは当時かなりセンセーショナルだったと思うし、男性社会の当時の日本からはかなりのバッシングを受けたそうだ。マスメディアにはこぞって「女のヒステリー」「ブスの決起」と評されたという。(ひどい言葉だ)

でも田中さんはそんな言葉に負けなかった。「構っちゃいられなかった。彼らの敵意は、既得権を奪われることへの恐怖の表れだと思ってましたから」と彼女は語っている。

この時代に彼女が産んだウーマン・リブとは、「男のつくり出した二分法や“女らしさ”を生きることは、“自分”を生きることにならない」と気づいた女たちの決起だったし、「ではこれから私はどう生きるか」という、女性自身への問いでもあったのだと思う。


3、私たちは「母か便所」から解放されたのか


田中さんは2024年の8月(つまりこの記事を書いたひと月前)に亡くなった。晩年は鍼灸の道を極めつつ、色々な活動に意欲的に参加されていたようだ。

彼女の願った“解放”から50年以上。

今を生きる私たちは果たして、「母か便所」の2択から解放されたのだろうか?

いやいやそんな大昔のこと、と思う人は多いかも知れない。
今では女性の真の社会進出も進み、家事育児の分担格差もかなり改善されたと言えるだろう。女性らしさを前面に押し出してセクシーに会社経営する人も増えたし、女性用風俗だって市民権を獲得しつつある。女性の性の解放はずいぶん進んだように見える。

しかし。

このアカウントで長いこと恋愛相談を受けてきた私は、以下のようなセオリーが今も女性の心の中に鎮座していることを知っている。婚活市場でももはや常識化していると言えるだろう。

「一度目のデートではヤらない方がいい」
「すぐセックスしちゃうとセフレ扱いになって本命彼女にはなれないから」

このセオリーは、田中さんの言葉を借りるならこれから関係を構築していこうとする男から“便所”認定されてはならない。“母”コースから脱線することになるから」と言い換えられるのではないだろうか?

つまり彼女が提起した男による女の二分問題は、この現代社会のどこかにまだ息づいているのである。

女同士の恋愛相談ででよく聞かれる言葉、

「すぐヤるとそういう女だと思われるよ」
「あんまり簡単にやらせると、そっち側の女認定されちゃう」

“そういう女”、“そっち側の女”とはいったい何か?つまり便所側の女のことである。

相手のことが本当に好きで惹かれていてセックスしたいと思っているなら、一度目のデートだろうが会ってすぐだろうが、自分が“したい”と思ったタイミングですればいいのに、私たちは未だに、男性のその「カテゴリー分け」で“便所”側に振り分けられてしまうことを恐れている。

私はかつて「セフレから本命→プロポーズへの下剋上ケーススタディ」という魂のnoteを書いたけれど(今もなお売れ続けている)、これは田中さん流に言うなら、「便所から母への下剋上ケーススタディ」となるわけだ。


一方、母側はどうか。

「母親にもなってセックスしたいとか、みっともない」
「子どもがいるのに性欲があるなんて、はしたない」

夫が自分を女性として見てくれなくなった。と嘆く女性は多い。たった1人のパートナーが自分に触れなくなったら「私の“女”としての人生はこれでおしまいなのか」と絶望するのは当然のことだ。

それでも、「あなたは母親になったんだから」と多くの“母”たちが諭されている。女性芸能人が不倫すればこれでもかと叩かれる。メディアから引き摺り下ろされ仕事を奪われる。そっち側にカテゴライズされた以上、そんな欲を出すなんて人間のクズだと言わんばかりに。

(以前、篠田麻里子さんが夫に浮気を追求されるやり取りが流出したことがあった。「だって寂しかった」と涙を流す篠田さんに、夫側は「何言ってんだよ、お前は“母親”だろ」と返している。つまり彼は篠田さんを“母”カテゴリーの女として、もはや愛情・性的充足を求めるべきでない生き物として見ているのだと推測できる(彼らがセックスレスだったかどうかは知らないが、少なくとも篠田さんは満足していなかったのだろう)。

篠田さんには何の個人的感情もないが、こういうとき、女性側の気持ちや立場はあまり考慮されず、“母カテゴリー”の女として袋叩きにあうのはやるせないなと思う。彼は篠田さんを女性として扱ってあげていたのだろうか。一度母カテゴリーに入った女として、そういう対象“外”として扱っていたのではないだろうか(モラハラ夫説もあったな)。そういう男の罪はなぜ問われないのか。本当に彼に責任はないのか。


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「女の敵は女」というが、その根底にはこの「母」と「便所」の二分が大きく影響しているような気がする。私たちは、母が便所を求めても、便所が母のような顔をしても許せないのだ。どちらかしか選べないと思っているから。

両者の間には超えられない深い溝がある。

そういう意味では、AV女優がブランドとコラボしたら炎上した、という件も同じように理解できるのではないだろうか。「一度便所側にカテゴライズされ、その領域で美味しい思いをしてきた(かどうかはわからないが)女性が、社会一般的な活躍の場に出てくること、ブランドというオフィシャルな雇い主と正式な契約を結ぶことが許せない」という心理の裏にも、この二分があるような気がする。

便所か母か。というこの男による二分法は、「セフレか本命か」「遊びか真剣交際か」「娼婦か主婦か」という言葉に置き換えられて見えない足枷のように私たちを縛っている。女性自身も、知らず知らずのうちにこの二分法に乗っかってしまっているし、自分で自分をカテゴライズしてしまっているのではないだろうか?


4、便所と心的外傷

さて、今回のnoteは文献をあたりながら客観寄りで書いてきたけど、少しだけ私の話をしようと思う。田中美津さんが「私からの出発」と宣言したように。

まず、この二分法に乗るなら私は完全に“便所”側である。

今は一応妻になったので“母”カテゴリーのはずなのだが、私のアイデンティティは完全に便所にある。なんなら自分で自分を便所側に置いてきたところまであると思う。

ジェンダー論で有名な上野千鶴子さんがある時言説実践の話をしていたけれど、そういうふうに扱われたり呼ばれたりするうちに、人はそのカテゴリーを自分に引き受けていくのだそうだ。

私はいつ便所になったのだろうか?

振り返ってみるとそれは、親戚のおじさんが布団の中で戯れに私のお尻を触り続けた時だったのかもしれない。近所の顔見知りの男性が夏祭りの暗がりで幼い私のパンツの中に右手を入れてきた時だったのかもしれない。あるいは、地元の20代のヤンキー4人に強姦された15歳の時だったのかもしれないし、初めてセックスの対価を受け取った時だったのかもしれない。

そう。田中さんと同じ。
私も自分を「汚れた女」と思って生きてきた。

でも私は思うのだ。

生まれながらに便所側の女性というのは存在しないんじゃないだろうか。

例えば、風俗で働く女の子や、自分の体を商売道具にする女の子たちは、「性的にだらしない」とか「倫理観が狂ってる」とか「お金のためになんでもやる子」と見られがちだ。もしくは、深刻な貧困が問題だとか社会的議論のネタにもされやすい。

それも一理あるだろう。でも彼女たちの話をよくよく聞くと、過去に性被害に遭っているケースがものすごく多いのである。彼女たちはどこかの時点で自分を「汚れた」と認識し、それに相応しいと思う環境に身を自然と置くようになっているのだ。

そういう人は、大好きな男性から大事にされて幸せになる自分をなかなか受け入れられない。「自分は汚れているのに」という意識があるから、どうしても居心地悪く感じてしまうのだ。それで坂道を転がり落ちるように自分を粗悪な環境へと貶めていってしまう。自分が葛藤しなくて済むような場所へ。誰にも責められないような場所へと。

彼女たちはそうやって"便所"側に押し込まれてゆくのだ。

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ここで少しだけ心的外傷の話をしてみたい。

心的外傷体験というのは、簡単に言えば心の傷だ。定義をググると色々出てくるが、以下のような出来事によって引き起こされることが多い。

①自分の生命/体に対する深刻な脅威
②自分以外の人間が事故/暴力のせいで重症を負った/殺害された事件、天災、テロ行為、戦争などを目撃すること
③自分の身近な親族・友達に対する深刻な脅威

心的外傷は、最近でこそ知識として浸透してきたが、受けた方はどう対処していいのかわからない、そもそもその現象自体認識できない人がほとんどだと思う。(心理の専門家として、そう思う)

心的外傷は、適切なサポートや治療を受けられれば回復することもあるが、ショックや混乱をそのまま飲み込んで自力で生き延びようとすると、一見不可解な結果に結びつくことがある。

例えば、心的外傷を受けた子どもは、自分に起きたことをうまく理解できない。言語化もできない。しかしそれでもなんとかその出来事を"把握"するために、自らその出来事と同様の遊びを繰り返すことがあるのだ。

自分の手に負えない、理解し得ない、辛い出来事、ショッキングな出来事が起こったとき、人は、それをなんとか自分で理解しよう、コントロールしようとする。耐性をつけて乗り越えようとする、克服しようとするのだ。そうして自ら、同じ体験を再現しようとする、その事故現場に戻って、その環境に巻き込まれていくことがあるのだ。まるで同じ敵にもう一度闘いを挑むかのように。

そして同時に、オリジナルの心的外傷時に対処しきれなかった自分を責め、加害者を憎み、世界に怯え、自傷行為や自暴自棄な行動をとるようにもなる。自分を粗末に扱うようになる。

心的外傷後の反応として、回避行動やフラッシュバック、突然の感情失禁などはもちろん有名だが、意外と知られていないのは、この一見破滅的ともとれる"克服のための再現"と、自尊心・自己価値の低下、自傷的行動なのである。

もちろんすべての人がそうとは言わない。選んで進む人もいる。汚れだなんてとんでもない、清い心でその職種に誇りを持つ人だっている。

でも、人生のどこかで性的な心的外傷を負い、それをなんとか生き延びようとして、便所側に足を踏み入れてしまった人が少なからずいるということを、私は改めて論じてみたかった。

母側にとどまれた人からしたら、嫌悪の対象でしかない風俗嬢、夜職の女性たち、身体や自分を切り売りする女の子たち。「ああいう女がいるから」「一緒にされたくない」とひたすら疎外される女性たち。

でも、彼女たちはかつて、まっさらで傷つきやすい、ひとりの小さな女の子だったのだ。

自分の受けた傷をひとりで抱えながら、誰にも頼れず、それでもこの世界を生きていくために、ただ震えながら戦ってきた、ひとりの小さな女の子だったのだ。

だから、男性と対立するのは仕方ないとしても、男性のつくったこの線引きに乗せられて女性同士で罵り合うことを、個人的には悲しく思う。

訳もわからず便所側に押し込められた女の子たちを思う時、もし誰かがどこかのタイミングで、もう少し優しく、受容的に受け止めていたら、全く違う道を歩けたんじゃないか。もう少し周囲に理解があれば、そこまで辛い思いをしなくて済んだんじゃないかと、

どうしても考えてしまうのだ。


5、矛盾を受け入れるということ

私は性を売り物にしてきた"確信犯的便所"でもあるので、近年のフェミニズムには申し訳なさというか後ろめたさを感じていた。
何も言う権利はないと口を閉ざしてきた。海底に沈む貝のように。

女性の性が男性によって不当に商品化され、消費される問題。女性が日常的に受ける性に関する心的外傷を軽視するような風潮。もちろん重く捉えているし、怒りに震えている。

ただ、女性側にも矛盾があるような気がして、ずっと引っかかっていたのだ。

女として品定めされるのが不快極まりないと叫びながら、ハイスペックに選ばれるための"女磨き"は欠かせない。男女の平等を求めながら、奢らない男性は許さない。自分の身体は商品ではないと認識しながら、からだの関係を持ったことに"責任"をとらせようとする。女性への性暴力は死刑だと主張しながら、自由を奪われる拘束プレイには興奮したりもする(女性向けのレイプ漫画の需要があるのは何故なのだろう?)。

もちろん個人差というグラデーションはあれど、私たちは矛盾している。
矛盾しているけど、どちらもほんとうの私たちなのだ。

まさに50年以上前に田中美津さんが指摘した矛盾を、私たちは今もまだ、うまく受け入れられないでいる。

だから女性同士で罵り合うし、矛盾を無視してすべて男性のせいにしようとしてなんだか筋が通らなかったりするのだ。

***

私は、この新しい時代において、
私たちが生きるこの時代において、
かつて男がつくったあの2つのカテゴリーの呪いを解くことができるのは、男性でなく女性自身だと思っている。

私たちは矛盾していていいのだ。
相反する特性を同時に持ち、葛藤しながら生きる存在であっていいのだ。

母がもっと愛されることを求めてもいいし、女であることを否定しなくてもいい。愛がないなら関係を終わらせて新しく求めたっていい。
性的に自由な女性が妻や母になってもいいし、セクシーな仕事をしていた人がスーツに身を包み、真面目な道を選んだっていい。息抜きに女性用風俗を利用したっていい。

そこに自らの選択権があるなら、その人の"女らしさ"はその人のものだ。他の誰のものでもない。文句を言われる筋合いはない。

そうやって互いに認め合うことで、私たちはこの深い溝を埋めていけないだろうか。
男がかつて作ったこのカテゴリーをぶっ壊せるんじゃないだろうか。
向こう側で苦しんでいる同志に、手を差し伸べることができるんじゃないだろうか。

その手を取り合い、不都合な真実と向かい合ったとき、私たちは初めて、真の問題解決に着手できるような気がするのだ。


***

さて。
最後の最後は長いお付き合いの読者さまと、腹を割って話したい。

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