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キャメルのロングブーツ
雪が降り積もった朝。土曜だというのに出社日だった。滑らないように気をつけて駅に向かった。
車の往来があったから地面は雨の後のようだった。電車はいつも以上にガラガラで、キャメルのブーツは、雨が染みてで底のほうの色が濃くなっていた。
地下鉄から地上に出ると、びっくりした。歩道は、雪が降った直後のように足跡はほとんどなかった。
小さな川に丸くカーブした橋が架かっている。普段ならなんて事のない橋なのに。
赤く彩られた手すりも雪に埋もれていた。ゆっくりゆっくり進んだ。半分を越えて下り坂のところで、滑ってしまった。体が一瞬浮いたところで、「大丈夫?」と後ろから声が聞こえた。
見られた。何もなかったように立ち上がると同じ部署の先輩だった。「こけちゃいました」と笑った。この人なら大丈夫と思ったけれど、会社に着くといやいや大丈夫だったのか、そうでもなかったのか。
おしゃべり好きの先輩は、同じ部署の人と雪の話をするついでに私が転んだことも付け加えた。みんないい話題だと笑っていたけれど、私は少し恥ずかしかった。あの人にも漏れなく聞こえていた。
給湯室で顔を合わせたときに「転んだんだって」と少し笑われて、そのあと「でも、怪我がなくてよかった」と言ってすぐに行ってしまった。数秒の出来事、目が合った時間がとても長く感じた。
土曜出社は、会議やミーティング、事務仕事だったりするから内容によっては私服でよかった。社長のひと声で出社している部分もあるので不満がなかったわけではないけれど、私服を見るのは面白かった。
普段スーツの男の人がそれを脱ぐと、その人のセンスが大きくでる。普段よりマイナスの印象の人が多い中で、あの人は、シンプルでちょっとこだわりのある服をスマートに着ていた。
一通り溜まっていた仕事は片付いたけれど、「なんだったんだろうか今日は」そんな気分だった。帰り道は、すっかり雪も解けていて、あの丸い橋も普通に通れるようになっていた。
夕方に気温がまたぐっと下がって、白いショートコートにグレーのマフラーでは寒かった。デニムをインしたブーツのシミはもうなくなっていた。朝のことを思い出しながら、あの人に見られなかったことだけ救いだとひとり笑った。
はじめて私の家に来てくれた日、帰るときに駅まで車で送ってくれた日もキャメルのブーツだった。
時計台の前で待ち合わせをしたときもこのブーツだった。なかなか抜け出せなかったと、寒空の下冷えてしまった私のからだをぎゅっと抱きしめてくれた。
それから遠くに行ってしまってからも、このブーツを手放すことができずに数年が過ぎた。ただ、このキャメルの色合いとシルエットが好きだった。背伸びをしなくても、自分を少し素敵に感じさせてくれるような気がした。
3年後、忘年会に声をかけてもらって、顔を合わせることになった。事前に、知らないアドレスから連絡がきた。あの人からだった。
「俺も行くけど大丈夫かな。会えるのを楽しみにしています」
来るのか。うれしいに決まっているでしょ。
「大丈夫です。私も楽しみにしています」気持ちが溢れないように、それだけで返信した。
黒とブルーのワンピースにキャメルのブーツでドキドキしながら新宿へ向かった。視界にあの人がいた。それだけで十分だった。結局話したのは挨拶程度で、帰り道にメールすることもできずにそのまま帰った。
久しぶりに履いたブーツはだいぶ年を重ねてしまったようだった。私もまただいぶ年を重ねてしまった気がした。
次に会える日がやってくるのかもわからなかった。もし、会えるとしてもきっとだいぶ先の気がした。5年後とか10年後とか。意外とすんなりブーツを手放すことができた。
長い間ありがとう。