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忙しい毎日を省み「ぼーっとする」ことの聖書的な解釈
先月、都内において「どれだけ無心にぼーっとできるか」を競う「TOKYOぼーっとする大会」が開催された。元々は、韓国ではじまったイベントとのことだが、現在では台湾や香港、オランダなど世界6ヵ国で開催されている。日々の忙しさで頭の中がいっぱいになってしまっている現代人に、「無価値だと考えられる時間の価値」を伝える機会として世界各国で人気を博しているそう。
キリスト教では、具体的に「何も考えずにぼーっとする」という言葉は用いられていないものの、瞑想や祈り、聖読を通じて、休息し、心の静けさを取り戻すことが奨励されている。こうした機会を通して、神とのより深い繋がりを築き、自身の信仰や行動を省みることで、精神的成熟や自己改善へと導かれるとされている。
聖書には以下のように記されている。
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(マルコによる福音書6章31節)
忙しく働く弟子達を見かねて休息を指示するイエス・キリスト。なんだか、ホワイト企業の上司のような振る舞いが聖書から見受けられる。ちなみに、自律神経が安定し、疲労感がとれ、すっきり爽やかな状態にするような効果がある「ぼーっとする」行為。筆者も日曜礼拝の牧師の説教を聞きながら完全に意識が飛んで、礼拝後、すっきりした気持ちになることが多いが、これはただの「居眠り」であり、「ぼーっとする大会」ではレッドカードにあたるそうなので注意が必要だ。
(text しづかまさのり)