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福田美蘭、たすき掛けの「だまし」 ドラえもん展、行ったら見える 現代アートの罠

 28人の現代アート作家が、自らの「ドラえもん」を表現する展覧会「THEドラえもん展TOKYO2017」(東京・森アーツセンターギャラリー、2018年1月8日まで)。アニメのパロディーと言ってしまえばそれまでなのだが、現代アートという「ひみつ道具」を使うことで、商業作品=消費財=が耐久財=アート=へと価値転換がなされた。現代アートのフェイク性を認識したうえでの企画コンセプトは、さすがは現代アートの旗手・村上隆による企画だ。

 村上の呼びかけで参加したのは、奈良美智、森村泰昌、会田誠、山口晃、蜷川実花ら、ドラえもんを見聞きして育った世代の著名アーティストたち。絵画、彫刻、映像、インスタレーションなど、各1点から数点、おのおのの手法でそれぞれに思うドラえもんを表現した。

 奈良美智は「リボンをジャイアンにとられたドラミちゃん」で参加。前回のドラえもん展でリボンを奪われたドラミちゃんが、その後も取られたまま真夜中を迎えた設定だ。ドラミちゃんは奈良らしい不機嫌な女の子となり、泣き出しそうに睨みつける姿がかわいらしい。写真の梅佳代は、祖父が「ドラえもん」の漫画を読む姿など、家族の生活に溶け込んでいるドラえもんを20数点のポートレートで切り取り、壁3面にコメントとともに張り付けた。しりあがり寿のアニメ作品は、劣化していく世界を「劣化防止スプレー」というひみつ道具で元のぴかぴかに戻す物語で、シュールな絵柄が笑いを誘う。いずれもその作家「らしい」作品群だ。

(c)奈良美智「依然としてジャイアンにリボンをとられたままのドラミちゃん@真夜中」から、部分

 中でも象徴的だったのが、福田美蘭のアクリル画だ。行き詰った現代、過去の何かを模倣すること=フェイク=で存命を図るという、現代アートの本質を如実に示した。パロディーの形を取りながら、痛烈な批評性を秘めている。


 一つはレンブラントの自画像をモチーフにしたもの。前回のドラえもん展で発表された。レンブラントの元作品をデジタル印刷した写真の周囲に、福田が絵を描き足した。元の作品では、レンブラントの後ろに描かれている円弧二つが何を描いているかが謎だったという。福田はそれを、実はドラえもんの足で、レンブラントはドラえもんを描いていた途中だった、と想定。いかにもレンブラント風の筆致・色使いで、レンブラントの時代にもドラえもんが現れて、本当にそういう作品を描いていたかもしれない、と見るものに想像させる。

(c)福田美蘭「レンブラントーパレットを持つ自画像ー」から、部分

 さらに素晴らしいのが、今回用に描き下ろした、もう一つの水墨画風の絵「波上群仙図」だ。伝統的絵画か、ドラえもん(現代アニメ)か。アクリル画か水墨画か。現代アートの「模倣性」を逆手に取って、二重の「だまし」をたすき掛けにし、鑑賞者を当事者として取り込む。

 絵は全体に、中国の水墨画の伝統的なモチーフが配されている。竹林の七賢人や寿老人と思しき老人、大黒様や天女、滝登りの鯉、招福柄である桃や書物を持った西王母や仙人などが描かれ、伝統的な水墨画をなぞっているようだ。近づいて見ると、そうしたディテールしか見えない。だが、少し離れて見ると「だまし絵・トリックアート」のように寿老人たちは遠景に遠ざかり、ドラえもんが浮かび上がってくる。

 面白いのは、肉眼でならば、仙人だけしか見えず、ドラえもんに気づかない立ち位置ででも、デジタル(カメラ)の目を通すとドラえもんしか見えなくなる、という点だ。人の目の方が近景を重視し、よりディテールにフォーカスする。デジタル機器を通すと、デジタル処理されてディテールが排除されるためか、鳥瞰になり、全体像しか見て取れない。ニュアンスが消されてフラットになる。ドラえもんに隠れた水墨画のモチーフが、デジタルによってなきものとなる。

(c)福田美蘭「波上群仙図」

 もう一つの「だまし」が、水墨画風と見えるこの絵が実はアクリル画である、ということだ。近づいて見るとアクリル画と分かるが、遠目では水墨画にしか見えない(こういうモチーフは水墨画だと思い込んでいるがゆえに、そう感じるだけなのだが)。遠目で俯瞰した時やデジタル処理ではドラえもんや水墨画に見え、実際に近くで見えるディテールでは西洋技法のアクリル画による仙人の図である。つまり、俯瞰で見ると「ドラえもんの水墨画」、ディテールを見ると「仙人のアクリル画」となっている。

 先入観で考えるなら、「ドラえもんはアクリル画」「仙人は水墨画」だろう。だが、福田は二つの「だまし」をねじれさせ、「俯瞰ではドラえもん、ディテールは仙人」、なのに「俯瞰では水墨画、ディテールはアクリル画」と、たすき掛けにした。このパラドックスは、パロディーか芸術作品か、本歌取りか本歌か、真作か贋作か、モノの価値や見え方は、それを見る人々によって変わる、という本質を痛切に批判しているようでもある。人は己が見たいようにしかものを見ない。ねじれている現実は、見なければ見えないものだ。それは政治の世界でも、メーカーによる不祥事の謝罪が続く経済界でも、リアルに起きていることだ。

 ところで、この展覧会は、ほとんどの作品が写真撮影が可能(フラッシュ・動画は不可)となっている。携帯などで撮られ、拡散されるのが前提で展示されている。そう考えると、福田のこの「企み」も、実際に訪れることを誘う巧妙な仕掛けとも言える。この会場のこの位置に立ってみて初めて、見えてくる世界=ディテール=があるのだ。これが見たければ、図録でも拡散されたSNS上のデータでもなく、展覧会に来て体験するしかない。


 同様に、坂本友由のアクリル画「僕らはいつごろ大人になるんだろう」も、現場で実際に作品に対峙してこそ楽しめる。圧倒されるそのサイズ感は「十分に大きな人」であるが、大人ではない「しずかちゃん」が精密な筆致で描かれている。直面して初めて、タイトルのパロディー性をリアルに感じるだろう。
(展覧会は2018年1月8日まで、2017・11・29、元沢賀南子執筆)

(c)坂本友由「僕らはいつごろ大人になるんだろう」

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