【短歌】テーマ:ことば、文字
ことば、文字
個人から飛び出たあとのことばたち その意味などは他人が決める
ひらがなを図鑑にしたらそれぞれの生態などもわかるだろうか
脳内で生まれてくるは言葉?文字? どちらが先にあるものかしら
はき出したことばが文字になるとして どこまで届く?どんな大きさ?
行って良し 言葉になるに必要な検閲終えて外の世界へ
推敲で消された文字も欄外の見えない場所に今もいるはず
言葉も文字もないはずの時間にこそどちらも勝手に溢れ来る
はじめての愛の気持ちは人でなく文字に対して抱いた一人
あのときと同じ言葉のはずなのに今日の僕には意味が異なる
意味のない言葉や文字を並べても そこに何かの意図を読み取る
どれほどの言葉や文字を並べても何一つすら人がわからぬ
三十一字に込めたもの わたしという自由意志が求めたこと
「あ」と発し「ん」と言うまでに何思う そこにわたしはどれだけいるか
「あ」と見つけ、「い」と驚き、「う」と苦しみ、「え」と疑い、「お」と収束した
今回の作品について
ことばを用いて何かを表現しようと考えたとき、それが短歌や詩、小説であれば文字は切り離せない存在です。
彼らはわたしのドアをノックもせずに開け、入ってくるのです。
あるいは許可もなしに飛び出していくのです。
たまにはこちらの言うことを素直に聞いてくれたりもします。
文字(ことば)で何か制作するとき、そこにはおのれの感情や思想が膨大に含まれており、あたまに浮かんだそのままを発現しても見るに堪えない事態を引き起こしかねません。
そういうわけで調べ物をしたり、構成を練ったり、推敲を重ねたりすることとなります。
自身の表現したいことをより良いものへと整えていくのですが、ある意味では他者へと向けた文字(ことば)となるように一般化していく作業とも言い換えられます。
スッと出したものが優れているようなこともありますが、そんなものは一時的な冴えでしかなく、あるいは天才のそれであり、基本的にはわたしのような凡人は反復による修練が必要なものです。
しかし、こちらがどれだけ内省、配慮、思慮した文字(ことば)であっても
おどろくべきこと*にその意味は読み手(聞き手)によって見出される部分が大きいと感じます。
わたしは言語学や心理学などを学んでいないため、あくまで個人的な意見ではありますが、以下のようなことを妄想しております。
文字(ことば)とは不思議なもので、適当な単語がいくつか並べてあるだけで何やら意味を持ったような振る舞いをはじめますし、その逆に、明確な意志を持たされたはずの文字(ことば)に何も感じないこともあるでしょう。
書き手(話し手)と読み手(聞き手)という要素で事態はさらに複雑化し、思いもよらぬ思惑が飛び交うそのなかで、書き手(話し手)の真意などはさほど重要ではなくなるのではないでしょうか。
つまり、読み手(聞き手)の現状が文字(ことば)たちに命を呼び込むこととなるのです。喜怒哀楽のどれを宿して、いつなんどきにそれを読む(聞く)のか、書き手(話し手)はそれを操作できないのですから。
操作できたとして、いいところ、ある程度にこっちだよ~と方向性を誘導する程度でしょうか。
書き手(話し手)のはき出したものは何が育つかわからない、不思議な命の種(だとうれしい)なのです。
ということで、文字(ことば)を生命の種であると仮定してみました。
繰り返しになりますが、ある人物の描いたそれはひとつの種でしかなく、見た人物の数だけ発芽して新たな命が生まれてくる――あるいは発芽しないものもある――ような、文字(ことば)とはそういう生き物なのかもしれないと考えています。
書き手(話し手)がいたずらに捏ねるだけではうまく育たないのは、そういう理由もあるのでしょう。
だからこそ、こちらの落とした文字(ことば)たちが、どのように芽生え、どのように生きるのかを眺めることが面白くもあり、また恐ろしくもあるのです。
今回の作品たちはわたしから生じた種ですが、あるいはあなたの何か、可能性のようなものを含んでいる――かもしれない、文字(ことば)たちであります。
どこかのあなたへ、その何らかの感情に触れることができましたら幸いです。
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