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「わたし:帽子の中のことば屋」について自己紹介のような何か

いくつか記事を投稿して、自己紹介的な記事がないな、と思い立ちこちらを書いております。
おおむね、ただの自分語りであるため、スラリと読み飛ばしたり、暇つぶしにでも見ていただけましたら嬉しく思います。


あるいは、ここに真実はないのかも知れない

「わたし」という存在を文章のうえで定義・証明するに当たって過去の事実を示すことがもっとも端的であると考えますが、なにぶん虚言癖ありの妄想マシンでして、客観的事実がどこまであるか不確かであります。
そもそも「事実」とは何であるか、いかにして「事実」であるとするか、そういった議論も必要になるでしょう。
しかしわたし個人がここで述べることはあくまでわたしから出現した経験的事実であるため、論理の整合性を問うことも不可能でしょう。

「存在」ということばも取扱に注意が必要で、わたし主観でわたしを見るとたしかにそこに在るのですが、こちらをご覧になっているあなた、あなたにとって「わたし」などはこれまで存在していなかった、ポンと目の前に現れた訳のわからない存在なのです。

では、前置きで「どうとでも取れるし、嘘か本当かも何だかぼやかしているけど、とりあえずなんか書きますね」と逃げの一手を示したところで自己紹介に入っていきたいと思います。さておき懸命な読者諸君にはわたしのこのもったいつけたような文体で性格を察していただけるような気もしていますが。


帽子の中のことば屋 と言う名称について

わたしの名の由来について。
ちょっと変わった名前だな、と感じる方もいらっしゃるかと思い、書いてみます。

今はおもに短歌や小説など、文字に起こされた芸に惹かれていますが、若いころは絵画や写真を好む生物でした。印象派や抽象画がとくに好物でして、ジョルジュ・スーラやワシリー・カンディンスキーに感銘を受けていたところ、ふとしたときにであったものがアンドレ・ブルトンやダリ、キリコ、マグリット、マックス・エルンスト等々がはじめた芸術運動、シュルレアリスムです。
自然、その前端となるダダイスムにも触れ、詩人のトリスタン・ツァラなる人物が手法として『新聞記事をバラバラの単語に切り、帽子に入れ、そこからランダムに取り出したものを並べる』ことを考案したそうです。
詳細な書籍や文献を当たったわけではないので細かな事実関係は不明ですが、そうして作られた詩のタイトルが『帽子の中の言葉』であった とのこと。

そもそもことばとしていい響きだし、偶然わたしは外に出かけるときは必ず帽子をかぶるくらいには好きで、言葉や文字にも興味を持っていて、おお、それならば!とこれを創作時の名前にしようと思い至ったのでした。

そもそも文章を書くのは何故か

表現の手段として現在、文章を選択している理由ですが、これが摩訶不思議、ホラ吹き野郎と言われてしまいそうなエピソード。
大概の人間がそうであるように、わたしも生活のために日々、仕事をしています。そのなかで後輩へ向けた資料を作成する業務をやることになりました。
ある夜、事務所内のパソコンに向かい、仕事の手順などを入力していた――はずでした。
2時間ほどでしょうか、時間がなくなっていました。比喩でなく、本当になくなったのです。熱中のあまり意識が途切れたとか、その後何かが戻ったといった感触も何もなく、2時間。ぷつっとその部分の意識がないのです。あるいは 時間が飛んだ と表現すれば伝わるかもしれない。

そして目の前の画面には資料ではなく、一つの短編小説があったのです。

それ以来、文章による自己表現をはじめた、というのがわたしが書き始めたきっかけです。
今となっては自分ですら、このエピソードは出来すぎていて、格好つけたいが為に存在しない記憶を生み出してしまったのでは?とおのれを疑っています。
が、わたしに備わった事実でもあるので仕方がない。


そして病欠へ ~ステレオタイプな転落物書き

もはや物書きの定番ですね。スタンダード。
どこにでもいる物書きのようにあたりまえに精神を病み、おなじように仕事中に倒れたりなどを繰り返し、精神虚弱なわかりやすい物書きテンプレート。モデルケース。ありがちの極み。
ここまでは別に良いのです。
良くないのは「長い文章を書くのがきつい」という物書きとして致命的な状態になってしまったことです。
ある程度の長さの物語を構成・構築することがすっかりできなくなってしまったのでした。
いらないと思うほど湧いてきていたアイデアも出てこなくなり、書いては消し、書いては消し、途方に暮れ、これまたオーソドックスな病みで、酒に逃げるなどわかりやすい行動を取るわけです。

だれもが何回もどこかで聞いたようなザ・挫折エピソード。
わたしもそのひとつです。


短歌と出会って

いかに病んでいようとも、書き物ができなくなろうとも、とりあえず生活はつづきます。死にたくはないのですが、死んでいるのか生きているのか、いったい何といえばいいかわからない状態ではありますが、存在はしているのです。
寝るし、メシも食う。映画や読書、今はXですが当時はTwitterの名だったものなどを眺めたりなど、典型的なダメなやつとしてひっそりと生きながらえていました。

寝る前などはとくにTwitterをぼーっとスクロールしているわけですが、そこへ唐突に短歌が。
とうぜん、テンプレ「何者かでありたい」ひねくれ者のわたしですから「なんじゃこのこぎれいなレトリックでなんかそれっぽい、同じようなこと言っとるやつらは」となるわけです。

ちょっとどこで見たものか出典を明らかにできないのですが、短歌の公募の選評委員の方が
「応募は150人くらいあったはずだが、20名程度に感じた。同じような感性で作られたものばかり」
のようなことをおっしゃっていました。
わたしもネット上で流れてきた短歌に似たようなことを思ったのです

出典:なし。あるいは記憶。ねつ造かも知れない

ひどい話ですが、「31文字ならなんとかなるんじゃね?」「できるんじゃね?」というのがわたしが短歌をはじめたきっかけです。
つまり、小説を書くためのリハビリ感覚で短歌を開始したのです。

ところが、それ見たことかといわんばかりに31文字の魔力に魅了され、今では小説の構想を練るよりももっと多くのあたまを短歌に使っています。

病状が格段によくなっている!とかは別にないので、順当に泣いたり笑ったり怒ったり焦燥したり絶望したり歓喜しながら創作しているわけですが、短歌を詠んでいます。

リハビリと言いましたが、実際にやってみるとこれは競技が違う。
小説が長距離走なら短歌は短距離走のように感じます。脳みその使う場所でも違うのか、小説は未だに書き進められませんが、短歌にはむしろ意欲を持って取り組めている状態になっています。

そのうち、お気に入りの歌人が見つかったり、「こんな表現もあるのか!」と感嘆したり、ついこないだまで「同じようなやつらの集まり」と思っていた世界にどっぷりと浸かっていこうとしています。たったの31文字がこんなに深く広いものだとは……。

閃きや煌めきで勝負するタイプではないので、わたし自身、今「だれかと同じような短歌を詠むやつ」に該当するでしょう。
そのなかで、わたしならではの何か――それを獲得するまで日々、呟いていくのです。


おわりに

以上、自己紹介……になっているのでしょうか。
全体を振り返ると、何を言っているのかよくわからないですね。
そもそも自己紹介とはいったい。

と迷宮に入ってしまいそうなのでこのくらいで終わりにしようと思います。

これからも短歌を詠み続けていこうと思っておりますので、
そこにいるどこかのあなた、たまに思い出してまた覗いてくださると嬉しいです。

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