『形態は機能に従う。』建築の世界の言葉
建築の世界では、「形態は機能に従う」という言葉があるのだそうです。
「携帯は昨日に従う」なんて過去の後悔と共に生きているような姿勢ではなくて、とても清々しい言葉。
甘いものを食べ過ぎれば肥る。洗わなければ台所にゴミは増える。怒りがあれば声や動きはトゲトゲしくなる。文句ばかり言っていたら空気は重い。
ありがたく食して節制していれば健康的になる。食べたらすぐ洗えば台所がきれい。怒りがなければ声や動きはゆったり。いつも感謝の気持ちある人の周りは涼やか。
今日もスティーブン・R・コヴィー著の「7つの習慣」を参考にブログを書いてみます。
私たち人間だけに授けられている能力。それは、自覚(なにごとも人の責任にしない、自分自身の人生を生きる力・自分を俯瞰して見ることのできる力)、想像(終わりを思い描いて、そのために正しいことを行うと誓う力)、良心(自然理性の原則・心の内なる泉・正しいことを正しい方法で行う力)
私自身のことでいえば、若かりし頃に、目的を決めてかける梯子の位置を少しかけ間違えていた。高く高く登ったのだろうけれど、梯子を登りきったときに、まるで雲で周りが見えないような、そこには何もないように感じて、こわくなって、降りてきてしまった。
そうして、今、人生ももうすでに後半にきてしまい、また、正しく梯子をかけて登ろうとしている最中なのです。
自覚、想像、良心という力は私にも十分与えられていました。
それは今も変わらないと信じています。
あの頃の私は、ゆがんだレンズで見た機能(自覚、想像、良心)を自慢していました。そこに現れていた形態はどんなだったのだろうと思います。
自分では優れていると思っていた形態は、ぶくぶくと太った野生な何かのような、または迷い込んだゾンビ…なんて自分では言いたくないので、ちょっとだけよく言ってみると、ビンの中にある餌が欲しくて手を突っ込んで動けなくなってしまったままのチンパンジーみたいな姿だったのでしょう。ああ。
ギリギリまできたとき、本当に自分がしたかったこと、したいことは何なのか、そして、たとえどのような場所にいようとも、あらゆる変化の波を何かのせいにせず主体的に受け止めることを決めて、せめて許されているうちにもう一度、というとき、ようやく人は敬虔な気持ちになれるものなのかもしれない。
少なくとも私はそうでした。どこまでできているのかとは思いますが、私なりに、天の光のような何か一筋の救いのような気づきを見せてもらえたような気がしました。
今は、スーパーで買い物をするとき、太陽の下で働いている方々を見かけるとき、電話での声、通学路を歩む子供たち、羽ばたく鳥たち、植物の生命力、あの頃よりは、形態に根付いた機能がよく見えます。
少しは見えやすくなったハートレンズが人生からのご褒美なのだと思っています。
機能とは感情ではなく、物体でもなく、動詞のようなものなのでしょう。
Being 、Doing
この世界に見えている万象も形態の一つの現れ。
一人と一人の世界がつながって不二の世界が出来上がっているのであれば、または、不二の世界の中に私たちが溶け合っているのであれば、起きてくること、目にするもの全ては私たちの機能そのもの。
大それたことなんてできないので、せめてゴミをできるだけ出さないように、あまりムダなことはしないように、トキメキを大切に、ユーモアを忘れずに、自分にできる限りの誠実さで、約束するなら小さなことから、時間もコトもしっかり守って、優先順位を迷わないで、後悔したり憂いたりはあるだろうけれど引きずったりしないで、心身を健やかに律して、まだ暮らしの中で、笑顔に会えることを感謝して、 一日という時間を大切に、ふれあいを慈しみ、恩人、家族への感謝を忘れずに、ああ、なんか泣けてきた。
頑張りましょう。
優れている形態は常にシンプル。
マルコ
ブログ書いています。
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