推しは推せ
戦国春秋時代の思想家が「推しは推せるときに推せ」という格言を、言ったとか言わないとか。
その集団を推家(すいか)と呼んだことから、スイカは推し活のシンボルになったとか。
それが民明書房から発行された書籍、「古代中国のビックリ推し活」という本に書かれていたとか(現在は絶版)。
強く誰かに惹かれることが無かった、
感情を持つことを許されなかった哀れなモンスターこと、私。
どうやら最近、OSのアップデートがあったのか、
すこし分かるようになってきた、ような気がする。
「コレガ、”推す”、ってコト?」
「”推しは推せるときに推せ”ってコトバ、オデ、スコシワカッタ。」
そんなイメージ。
「推し」を若者言葉として忌避してきた感は否めなかった。
ちょっとそんな言葉を使っちゃって、若者ぶっちゃって。
気恥ずかしさがあった。
ただ、『推せるときに』というのが切ないな、と思う。
それは、いつでも推せるわけではないという諦念がある。
推しの対象、あるいは自分が、何らかの理由で、もうこれ以上推すことができなくなってしまう。
単なる心変わりであれば、ヒトの心はうつろいやすいのでそれは仕方ないのかもしれないし。
あるいは、そのものの不在があるのかもしれない。
そんなわけで僕は推していきたい。
推していきたいんだったら。
じゃあ僕は何を推してるか?
明言を避けてみる。
というわけで推して知るべし(今日のオチ)