希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才のルーツを探る(Ⅰ)
「お祖父さまの苫米地英俊さま編」
平和で差別のない世界を目指して世界で活躍されています希代の認知科学者・苫米地英人博士の天才はどのように生まれたのでしょうか。それを知るためには、苫米地英人博士のルーツをたどる必要があるのではないでしょうか。
そのために苫米地英人博士のお祖父さまの苫米地英俊さまがどんな人であったのかを探っていきたいと思います。
苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまは、開拓社から刊行されております『北の街の英語教師』によりますと、「明治17年(1884年)に福井県大野町に生れている。その後長野県に移り、長野中学を卒業後、明治37年(1904年)に東京外国語学校英語科に入学した」と書かれています。 苫米地英俊さまは柔道の達人で、東京外国語学校在学中に嘉納塾に入り、講道館で柔道に励んだそうであります。
苫米地英人博士のお父様の苫米地和夫さまは、旧日本興業銀行(現みずほ銀行)常務、和光証券(現みずほ証券)社長・会長をなされ、日本証券業協会、経団連などの理事を歴任された方ですが、苫米地和夫さまが書かれた『緑丘と父 ー父、苫米地英俊の思い出』によりますと、苫米地英俊さまは、長野時代から柔道の試合で、かかってくる相手を次々と“跳ね腰”で投げ飛ばすほど強かったそうで、めきめきと頭角をあらわし長野県下で有名であったそうです。それで、苫米地英俊さまは、当時姿三四郎のモデルになった人物を含めて四天王といわれる猛者がいた講道館の加納治五郎館長にスカウトされ、東京に出て来て東京外国語学校英語本科に通っていたそうです。講道館に入門後、嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたっていたそうです。苫米地英俊さまは当時の全日本学生柔道大会で、決勝の相手の早稲田大学の中野正剛と戦い払い腰で倒して優勝したそうであります。
明治45年(1912)、苫米地英俊さまは、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から「北海道に柔道を広めに行け」の一言で、結婚したばかりの千代子さまを伴い小樽高商へ赴任することになりました。
小樽高商に赴任した苫米地英俊さまは、今度来た先生の出鼻を挫こうと柔道部の猛者に道場に引っ張りだされたのですが、「皆一緒にかかって来い!」と言って、五人を相手に電光石火のごとく全員を投げ飛ばしたそうです。さすがに柔道八段の腕前でございます。
小樽高商時代の苫米地英俊さまは、「正気寮」の寮監をしながら学生たちと一緒に風呂に入り、また教授として英語を教えておりました。苫米地英俊さまの小樽高商での授業はどのようであったかといいますと、『北の街の英語教師』によりますと、「授業の前半分は夏目氏『坊ちゃん』の一節の英訳に就いての研究があって、後三十分間はCommercial Correspondenceの教科書の輪読であった」と書かれており、また同僚のイギリス人教師と協力して夏目漱石の「二百十日」の英訳を『英語青年』に連載しておられ、英語学者として充実の日々を過ごされていたと思われます。
そして大正6年(1917)に外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチエックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL CORRESPONDENCE)を出版いたします。この本は教材になり学生からは「コレポン」と言われていたそうであります。また、当時、苫米地英俊さまは学生から「トマさん」と愛称で呼ばれていたそうで、「トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン 音がする」と歌われたそうです。なお、「コレポン」は「コレスポンダンス」の略であります。この「コレポン」は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し、昭和33年に至るまで出版された名著であり、苫米地家の家計を支えたそうであります。日本語訳の候文は、苫米地英人博士の祖母・千代子さまが書き直したもので、その候文は大変な名文で戦前、商社の人が国内の通信文にその候文を利用したそうです。
その後、苫米地英俊さまは、大正9年(1920)から11年(1922)の間、商業英語と国際法の研究のためにオックフォード大学とハーバード大学に留学され、アメリカのハーバード大学の寮ではのちに連合艦隊司令長官になる山本五十六元帥と一緒になり、元帥が戦死されるまで親交を結んでいたそうであります。 そして今となりましては、大変貴重な山本五十六元帥直筆の苫米地英俊様宛ての手紙「連合艦隊司令部にて 山本五十六」が苫米地家に大切に保管されております。また帰国の途についた同じ船にアインシュタインと同乗しており、11月10日にノーベル賞の受賞が決まり、朝日新聞からの無線の依頼で苫米地英俊さまが臨時特派員となりアインシュタインにインタビューをしたそうであります。
昭和10年に苫米地英俊さまは、小樽高商校長に就任、戦時中は「英語は敵国語」として英語教育について軍部から売国奴呼ばわりされるなど厳しい批判を浴びたそうですが、毅然とした態度で英語教育の重要性を訴え、頑として軍部から英語教育を守り続けたという硬骨の人でもあります。
こうした経験が戦後、日本を誤った道に進ませたことに官立学校の校長としての無力さを痛感し、戦後の復興に全力を傾注したいとの思いから政界に出て、衆議院議員4回、参議院議員1回当選し、また民主自由党常任総務、自由党総務などを歴任することになり、55年の自由民主党設立にもかかわったのであります。
なお、苫米地英人博士のお父様の苫米地和夫さまは父親の苫米地英俊さまが政治家であった関係もあり、若くして苫米地英俊さまの政治活動などを手伝い、宮沢喜一元首相などにとても可愛がられたそうであります。
読者の皆さまは、苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまの生き方から何を感じられたでしょうか。わたしは、苫米地家が英語および柔道に思い入れが強い家系であり、お父様の苫米地和夫さまが旧日本興業銀行のニューヨーク勤務となり苫米地英人博士もニューヨークに駐在し、後にカーネギーメロン大学に留学されて博士号を取得されたことなどを考えますと、苫米地英人博士の祖父・苫米地英俊さまの生き方のなかに苫米地英人博士の天才の秘密が隠されているのではないかと思われてなりません。
次回は、苫米地英人博士の祖母・苫米地千代子さまから苫米地英人博士の天才の秘密を探っていきたいと思います。
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