覚え書きとはよく言ったもので
先日、父方の祖母が亡くなりました。
90歳。大往生も大往生です。
Facebookに書くのも何だか違うなと思ったので、初めてのnoteです。
祖母について
両親が離婚してから父方の家族とはほとんど会わなくなったんですが、祖母だけは時々電話をくれていました。
「ボケないために誰かと話したいのだけれど、友人はみんなボケ始めていて、話すと絶対巻き込まれるからあんたに電話した」と笑
今年に入ってから体調が芳しくないということで見舞いに行くことを決め、先月久々に会いました。
祖母なりのボケ対策の成果なのか、小さかった頃と同じように普通に会話ができる。
その様子は、僕が90歳の老人に抱いているイメージとはかなりかけ離れてました。
それだけに、あまり実感もわかず。
覚えているということ
人も出来事も、誰かに覚えていてもらうことで、かろうじてこの形を保つことができているんだと思います。
忘れてしまえばない(なかった)ことになる、とそこまで言うとさすがに暴論になっちゃうけど、間違いなく輪郭は曖昧になることだろうと思う。
異常な忘れっぽさゆえ、人よりも魂の質量が少ない自分は、自分を自分以上に覚えていてくれる人たちのおかげで何とかくっきりできている。それも連続的に。
そして幼い頃の自分の輪郭、その大部分の証人は間違いなく祖母です。でした。
一日中ラジカセに耳をくっつけて、「いいね〜。いいね〜。」と繰り返していた3歳児のことは祖母しか知りません。
この類の、リアクションに困る投稿を人がどうしてするのか。永遠のお別れという、物心ついてから初めての経験を通してようやく理解した気がします。
例えば何か、二進法的に記録された情報を分けてもらえたりとか。
あるいは、記憶のぎゅっとつまったスフィアみたいなものをもらえたりとか。
そんなだったらな。
こうして忘れ去る恐怖に駆り立てられながら、だらだらと綴る必要はなかったのかもしれない。だらだらだらだらと。
ただ、ここはRPGの世界ではないので。
あまり人目に触れないように、でも息ができる穴だけは残して、言葉にしておくことにしました。
いつも炊いてくれてた美味しいかしわご飯のこととか。
夏になると冷蔵庫いっぱいに用意してくれていた棒ジュースのこととか。
気がつくのが遅すぎて、他の多くは散り散りになってしまったけど、まだ残っているものについてはその証人でいなくては。そう思いました。
今思うこと
放蕩な祖父を支え、6人の子どもを育て上げた人。
30年近くも前に未亡人になってから、長い間自分一人の足で歩いてきた人。
思えば、笑っているところしか見たことがない。
それがどんなにすごいことか、今は少しだけわかる。
最後にもらった言葉は何だったろうと思い出してみたら、「はよ結婚しろ」でした。
それも繰り返し。それも、かなり真に迫る感じでの笑
体調に気をつけて頑張るよ。
おつかれさまでした。ありがとう。