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「結論から話す」はドラマティックじゃない

 アメリカの会社で働いていた時に、「結論から話す」ということを叩き込まれた。リーダーやマネージャーへの報告の際、経緯や背景から話始めようものなら、まるで昆虫を食べる人のような奇異の目で見られた。嘘です、少しオーバーに言いたかっただけで。この「昆虫を食べる~」の部分は、「突然性癖を暴露する変態を見るのような目で見られた」とか「公衆の面前で裸で立っている人のように見られた」とか色々考えたが、結局これに落ち着いた。どうだろうか。
 話を戻そう。「結論から話す」というのは、ことビジネスにおいては、絶対的なルールのように話されている節がある。たしかに、「結論から話さない」人の報告を聞いていると、それが原因なのか、結果なのか、背景なのか、あるいはちょっとした共有事項なのか、しばらくわからないまま時が流れ、宙を見つめることになる。話している側は、情報を詰め込んでいるつもりでも、聞いている側は着地点がわからず、どこに集中して聞いて、なにを解決すればよいのか、戸惑いの表情を見せながら聞くことになる。また余談だが、私はその、「結論から話さない人」の報告を聞かされているマネージャーの表情を見るのが好きである。笑うでも怒るでもなく、目をパチクリしながら、何を言っているのか探ろうとする瞬間の人間の顔は、その人の地金が出るというか、あまり見られるものではないと思っている。

 似たようなものに、「YesかNoで答えられるように考えて質問して。あるいは、質問されたらYesかNoで答えて」というものがある。そういう質問をされたら、答える側は結論から話さざるを得なくなるからだろう。YesかNoで答えられるように質問をしているのに、その話題に付随する情報や、過去の経緯などを延々と話した挙句、結局なんだったのかわからない答えをする人がいる。急いでいる案件なんかでは、こういったことはどうしてもストレスになりがちだが、そういう時私は「ここで私が怒らなければ、地球の裏側で子供たちが笑顔になる」と事態を壮大にとらえることで気を紛らわせている。

 逆にこの世界で最も「結論から話さない人」を考えたとき、それは落語家なんじゃないかと思っている。出囃子が鳴り高座に上がり、結論を言って去ってしまっては、寄席にならない。「ロジカルな落語家」とは、「親切な殺人鬼」のように、自己矛盾する存在である。

 かつてダウンタウンの松本人志が、落語家の笑福亭鶴瓶をこう語っている。
「鶴瓶さんは、テレビ出身の芸人ではなく落語家。だから、テレビで話していても、スパッと落とすようなことはなく、色々寄り道しながらオチへ向けて進んでいく。視聴者として観た時、ボケである自分はそれを楽しみ、いいぞいいぞ、もっとやれ、と思いながら聞いている。ツッコミの浜田は逆で、遅い、長い、早くしろ、さあさあ突っ込むぞ、とイライラしている」
 なるほど落語家はやはり、「結論から話さない人」だ。

 興味深いのは、そういった「結論から話す」を極めた存在であろう起業家、社長、GMなどのビジネスエリートが、教養として、あるいは趣味として、落語を愛している人が多いということである。あなたの周りでも、寝る前や車の中では落語を聞いているというビジネスエリートが、一人や二人はいるのではないだろうか。
 理由は私にはわからない。けれども、「普段、社会的立場の高い地位に就いている人は、自分をさらけ出す機会を極端に損失しており、人に見られない場所でSMなどの極端に趣味に走りやすい」という話となんだか似ているな、と思う。

 考えてみれば、「結論から話す」ことは、なんだか味気のない、無味無臭な習慣のように思えてくる。皆が皆「結論から」話していては、心の機微や、風流は感じられないものだろう。
 恋愛ドラマの登場人物が、「結論から」話していては、2話か3話で終わってしまうかもしれない。すれ違いや思い違いが、逆説的に人間関係というものを成熟させるのかもしれない。恋愛は、「フィーリング」と「タイミング」、そして「ハプニング」の3つが成立要件だと言われている。

 「結論から話す」は、ドラマティックじゃない。


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