男の幻想、女の幻想-サヨナライツカー
「僕、活字中毒なんですよ」
ぱっと見は、活動的で人懐っこく、いかにもやり手の営業マン。
けれど、会話の端々に、幅広い知識と物事の本質を見る知性を感じる。
その理由の一つが、自称「活字中毒」の習慣にあったとは、意外でもあったし、なるほどとも思った。
どういう本を読むのかと訊けば、「なんでも」なのだという。
話題の新書も読むし、自己啓発本も読む。
ビジネス書でも、小説でも漫画でも雑誌でもいい。
本当にどんな本でもいいらしく、それは「一人の時間がもったいない」からなんだそうだ。
一人で食事するときとか、電車で移動するときとか、何もしていない時間がもったいないと感じて、いつでも鞄に本を忍ばせ、束の間を惜しんでそれを読む。
特段共感するわけではないが、そういう気持ちも分からないではない。
「何かいい本ありませんか?」
そう尋ねる表情は、「何か食べるもの持ってませんか?」とでも言うような、ちょっとした飢餓感めいたものがあった。
「なんでもいいんです。なんでも」
大して読書量の多くない私は、限られた自分の本棚を思い巡らしてみる。
しばらく考えた後、「恋愛小説は読みます?」と訊くと、「あんまり読まないですけど、それでもいいです」と言うので、私はこれまでの人生において、おそらく唯一無二の恋愛小説を挙げた。
新しいおやつをもらえると知った相手の目が、嬉しそうに輝いている。
「私もあんまり恋愛小説を読むわけじゃないんですけど、これだけは個人的に特別なんです」と断ってから、辻仁成の「サヨナライツカ」を挙げた。
もう何度も読み返しているが、私はその度に涕泣してしまう。
筋書きは分かっているのに、ほとんど同じあたりで泣けてきて、こぼれる涙でページもハートもふにゃふにゃになる。
初めて読んだのは、2002年の夏だった。
彼ほどではないけれど、その頃の私もちょっとした活字中毒で、3日で一冊くらいは読書していた。
夏休みに帰省する新幹線の車中で、持参した本を読み終えてしまい、西明石駅前で迎えの車を待つ間、本屋に立ち寄り、次の本を探したのだ。
ちょうど文庫本が出たばかりで、真っ赤な表紙が本屋に平積みされていた。
予備知識は全くなくて、辻仁成を読むのは初めてだった。
ただ、「サヨナライツカ」という奇妙な日本語に引っかかったのだ。
一瞬、「イツカ」という女性の名前だろうかと思ったが、冒頭に載せられた詩を読めば、それは「いつの日かさようなら」という意味での「サヨナライツカ」だと知り、その違和感で本を買った。
本の帯には、「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと 愛したことを思い出すヒトにわかれる 私はきっと愛したことを 思い出す」とあった。
ネット上でこの本の感想を検索すると、この帯のフレーズに惹かれて買ったという意見が多いが、確かにうまい売り方だと思う。
物語の舞台は、1970年代半ばのタイ・バンコク。
航空会社の若きエリートビジネスマン・豊は、単身バンコクに駐在している。
彼には日本に理想的な婚約者・光子がいるが、そこに高級ホテルのスイートルームに一人で暮らす謎の美女・沓子が現れ、大胆に彼を誘惑し、異国の地で二人は恋に落ちていく。
客観的に見れば、愚かな二股男と、愚かな女たちの三角関係物語だ。
初めて読んだときは、自分の立場はニュートラルだった。
誰に共感したというわけでもない。
二度目に読んだとき、私の気持ちは豊に近かった。
三度目に読んだとき、沓子に共感した。
そして、どの立場においても、私は泣いた。
苦しくて切なくて、泣いた。
それは、憧れるような恋ではない。
むしろ、こんな結末の恋は決してしたくない。
こんな一生は決して送りたくない。
半ば哀切するように、心から思う。
小説を読んで、ちょうど今の私と歳の近い主人公たちと同じように、25年の時を擬似的に生きて、未来の立場から自分を振り返ってみる。
そのときそれは、決して取り返しのつかない、刻みこまれた生き様であり、何を悔いても、何を嘆いても、それが私の人生でしたと認めるしかない。
永遠の過去形で、そう言い切るしかない。
一瞬一瞬の選択の中で、私たちはいつも必ず自由であるわけでなく、また自由だと思ってとる選択が、やがて自分をがんじがらめにすることもある。
主人公たちのような人生は決して嫌だと思いながら、それでも落ちていくのが恋なので、意図に反して縛られてしまうことに、結局抗えないと愚かな私は知っている。
家の近所で食事していたので、「じゃあ、今日、貸しますよ」と提案する。
玄関先で待ってもらって、私は本棚に「サヨナライツカ」を探す。
今回の引越しで随分本を処分したが、あの本だけは捨てたはずがない。
「どうぞ」と赤い表紙の文庫本を手渡すと、「すぐ読んじゃいますから」と彼は笑った。
その予言どおり、4日後に彼はその本を返してくれた。
「たぶん、自分でも買っちゃいますね、これ」
そうして彼が聞かせてくれた感想は、その洞察の深さにおいて、私の予想を遥かに超えていた。
正直、それは私自身一度も考えたことのなかった切り口で、しかも、自然な納得感があった。
「よくいるじゃないですか。過去の栄光にすがって生きている人って。
昔はもてたとか、華やかな生活をしていたとか。
彼女は、一人の男以外を愛せなくなったという言い訳をして、そういう過去にすがっているだけです。
結局、他の男をうまく好きになれなくて、他の男とうまくいかなかったから、それは昔の男が自分にとって特別だったせいだと思おうとしているだけなんです」
私は、沓子の一貫した愛について、これはファンタジーだと考えていた。
別れても一生自分を想い続けてくれるなんて、そんな都合の良い女は、男、あるいは作者の幻想に過ぎず、だからこそ物語が狂気に近い切なさと美しさを放つのだと考えていた。
しかし、彼は、こういう沓子こそリアルなのだと言いのけたのだ。
そして、そんな哀れな沓子に与えられた最後の救済こそがファンタジーである、そういう解釈だった。
別れても一生想い続けていた男が、人生の最期に「僕もずっと愛していた」と言ってくれる。
「別々に生きてきたのに、ずっと一緒だったような気が」して、孤独の人生が救われる。
つまり、それは女の幻想である、という読み方。
これまで誰も、そんな解釈を教えてくれた人はいなかった。
私にとってそれが思いもよらなかったのは、私が女だからだろうか。
沓子の孤独を、相手の男のせいにしたいと、どこかで思っている。
「yukoさんが最初に言ったように、この小説は誰の立場になって読むかできっと全然違うんだと思います」
確かに、そうだ。
男の幻想と、女の幻想。
おそらくそのどちらもが解釈として正しいように思う。
どちらの幻想も、リアルな幻想だからだ。
そこに出逢って、もっと、もっと、切なく胸がしめつけられる。
サヨナライツカ(2001年・日)
著:辻仁成
■2007/10/11投稿の記事
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