自分の「学び」を整理する①
2022年の上半期、
英語講師として
一個人として
学びたい分野の講座や
ワークショップが
大体見えてきた。
まずは日程をおさえておく。
楽しみ過ぎる。
学ぶことが「楽しい」
と感じるようなったのは
いつからだろうか。
少し振り返ってみる。
学ぶ=面白いと思えたのは、
高校に入ってからだった。
現代文、世界史、生物。
この3つの授業が特に
面白かった。
これらの分野は、
いまだに自分の「好き」を
構成する要素になっている。
高校ともなると、
「先生」は「先生」と
いうよりも、
「その分野に長けている
専門家の大人」という
印象だった。
無意味な校則や規制が
非常に少なく、生徒の
自由が適度に守られて
いる高校だったこともあり、
教室内にいることが
そもそも苦痛でなかった
というのも、学びに
向き合える要因だったと
今にして思う。
現代文のN先生の授業は、
実に強烈だった。先生の
深い知識と洞察力に
魅せられた一方で、
たびたび、切れ味の良い
刃物みたいな言葉で
スーっと心に傷も
つけられた。決して
マイナスな意味ではなく。
高1の前期に先生が
放たれた言葉は、
今も尚心に残っている。
正確な言葉は忘れて
しまったが、だいたい
こんなことだった。
「あなたたちは、
今の時期は楽しくて
仕方がないかもしれ
ないが、数年後、
いや、1年後には、
自分について思い
悩んだり、孤独に
苦しんだり、自分の
存在を見失ったりする。
人はそういうものです。」
衝撃だった。
そのときは「えー!やだなー」
と思ったが、
私の場合はきっかり
1年後、それは本当
だったことに気づく。
自己理解に向けた内省が
始まり、ヒントや答え、
あるいは共感を求めて、
文学や映画にのめり込んだ
高校時代だった。
「ただぼんやりとした不安」
を要因に自死した芥川龍之介に
ついて学んだとき、どの時代を
生きたとしても、どんな人生を
生きたとしても、人の本質と
いうものは変わらないのでは
ないのか?と感じ、哲学や
心理学への興味へとつながって
いった。
「現代文」という教科の枠を
越えた学びの旅がすでに始まって
いた高校時代だった。
続く