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とあるフォルケホイスコーレにインタビューしてきた直後の想い✍️


Hej!

デンマークにいる絢菜です!


今日は、デンマークにあるInternational People's College(通称:IPC)へインタビューをしてきました!
インタビュー最中に感じた心境を思い出すべく、今回は一気書きします!!!

Folkehøjskole(以下、フォルケホイスコーレ)は、デンマークの教育において進学の選択肢の一種である制度の元にある学校です。(詳しくは一般社団法人IFASが分かりやすく示してくださったりしています。)

そんなデンマークの国民性の所以とも捉えることのできるフォフケホイスコーレ。
今回のインタビューでは、フォルケホイスコーレが初めて設立されてから年間引き継がれてきた想い・「ヒト」への価値観や視点・対話への姿勢を、聞いてきました。
内容もさながら、今はインタビューを終えた直後の自分の感情や思考を整理するためにもここに書き留めたいと思います。


私がこれまで受けてきた日本の教育って?

私はこれまで日本の義務教育社会でどっぷりと育ちました。
自身の海外思考・両親のバックアップもあって、高校・大学時代は海外文化に直に触れる経験(留学・放浪・短期滞在・友達との旅行)もできたことは、ものすごく感謝していますし、今の自分を形成している大部分ともなっています。

しかし、カナダへ半期留学して聞いた時に、教育スタイルは国ごとに違うことに驚き、個人の意見や考えを大切にする教育への感銘や居心地の良さを感じていました。
この時は「日本とは違う国だから」「新しい経験ゆえ、新鮮に感じているだけ」「こんな教育の在り方もアリだけど、ここは北米だもの」と自分に言い聞かせ鎮静させていた自分がいた、今では思います。

ですが、今回のインタビューを通じて、この疑問を再認識しました。


「私がこれまで受けてきた教育って、何だったんだろう?」


この疑問をきっとカナダ留学時から感じていたのですが、それを直接的に受けとめたら自分がこれまで受けてきた教育を全否定=自分を否定することになってしまう...と恐れていた自分がいた事にも遅かれながら気づいています。

日本は本当に素晴らしい国だと、海外の滞在経験を通じてこそ本当に思います。
整備されたインフラ、時間の正確さ、所持品から少しの間目を逸らしても盗まれない安全性(言い過ぎ?笑)、「どうぞ」と謙る姿勢を持つ文化、丁寧な所作、ピシッと並べられたスーパーや服屋の棚、、、あげたらキリがないほどに日本の良いところは沢山あります。
また「平和ボケしてるよね〜〜〜」と自称したり、時には自ら揶揄ったり、もしくは他から揶揄られるほどに、確かに平和ボケと言うことのできてしまう国にまで発展できたことは、先人のリーダーたちや現代の私たちの日々の小さな思いやりなどの積み重ねが功を成しているとは思います。
だが、それはそれ。
こんな素敵な国で育つことができたこと自体に感謝しつつも、私がモヤモヤするのは、、、

本当の自分の意見や考えに耳を傾け、自分自身について知ろうとしている人達ってどれほどいるのだろう?知るでなく、それを周囲へと伝えられているのだろう?

なぜ、自分の考えを相手へ伝えること、他ではない自分を尊ずることの大切さが義務教育の中にないんだろう?私はなぜ自分を犠牲にしていると気づかないまま耐え忍んでいたのだろう?

確かに平和のためには、他者との調和が必要条件なのは世界共通だと思います。
ですが、その調和の方法があまりにも極端(統制で鎮めるか、自主性を代償にするか、など)では、本当の意味での平和や調和にはならないのではないのでしょうか。

日本は敗戦後から民主主義国家として再起を目指していたが、実際のこれまでの再起のプロセス自体も民主的ということができる形だったのだろうか?と考えると、教育、政治、国民性それぞれの観点から考えても、国家という上層位にいる人が膨大な得を積み、庶民という下位は知らぬが仏精神で上位層を支えるための消費者や協力者としての育成を測るための教育だったのではないかと思わざるを得ない心境になっています。
正直、自分でも中々驚いているほど。

「教育」の影響力は計り知れない

日本と海外(特に北欧諸国)との国民投票率を比較しても、教育そのものが成し上げる国民性は歴史同等、もしくはそれ以上の強靭なパワーがあるのではないかとも感じています。
だからこそ、教育(義務教育・家庭教育・成人教育も全て含め)のとてつもない強靭やパワーを痛感し、日本での教育全体、そして義務教育を定める国家や政府への懐疑的な視点を大切にせねば日本はこれからどうなるのだろうと、滅多に抱かない稀なネガティブな感情をも抱いています。
久々にチーーーン。という効果音が似合うような心境になりました。

それぐらいFolkehøjskoleに数時間でしかないが、そこにいて感じたことは、
Folkehøjskoleの大切な理念は日本社会にとって、パクチーのように最初は意味不明だし毛嫌いされるようなことだが一度味を占め理解すれば魅了されるような効力になるのではないかと、心の底から思いました。(パクチーはあくまでも例えです。パクチーごめん。)

今の「ワタシ」が築かれてきたのも教育があったからで、本当に良い意味で「教育」について真剣に向き合い考える良い機会になったと思います。


逆に、日本の教育が特殊すぎる?

寧ろ、カナダといい、ヨーロッパといい、(アジア諸国の教育は体験できていませんが)今回のインタビューは、日本の義務教育が本当に偏っていると思うきっかけでもありました。私が受けた教育はあくまでも日本における"スタンダード(日本ver.)"であって、「当たり前は当たり前じゃない」と頭では分かっていても、体感すればするほど、非常に自分が受けてきた教育の中の偏りを強く感じ、考えを巡らせるようになっています。

特に、「自己」に対しての意識度合いがまさにそうだと感じています。

今回のインタビューを通じて、フォルケホイスコーレがデンマーク社会の根幹として3つの項目が土台にあることが分かりました。
①民主性
②自己エンパワメント
③様々な「しあわせ」の在り方の認識

(各項目は追々noteにまとめていこうと思います笑)

デンマークの民主性は、違った観点から沢山注目を浴びています。一般社団法人NO YOUTH NO JAPANが面白くレポートしており、現在進行形で更新され続けているのでとてもお気に入りなメディアです。
私はまだまだ政治への知識や考えが浅いところがありますが、この団体からの学びや、今回のインタビューで「民主政治とは?」も本当に考えさせられました。
デンマークは「国民投票率が高い国」という、それ以上でもそれ以下でもないことしかデンマークにおける民主性について知りませんでしたが、想像以上の感銘を受けています。(今も心がジクジク、ホカホカしているぐらい)

インタビューさせていただいた直後にハッと鮮明に思い出した言葉が、

「一人一人の声こそが民主性を共創させる。逆に個人の声無くして、民主性は成り立たない。そのためにも個人自身が己の声に耳を傾けて言ってみること、そこから他者との対話へとつながり聞くことの大切さも知ることができる。」

という主旨の言葉。言語化にするのが難しいと感じたぐらいの衝撃を、このお言葉から絶賛受けているところです。

「この対話の仕組みこそ、フォルケホイスコーレの起源を受け継いでいる物事そのもの」とも言われています。フォルケホイスコーレの歴史・発展についても詳しく調べまとめたいところです。(それを通じてより深く考えることができそうだから自分自身の理解のためにも!というかそれが概ね!笑)

少し話が逸れましたが、ようは何を強く、深く感じたかというと、日本の義務教育って本当に民主主義のため?と自分に問うてみたら、正直はっきりとしたYESなんてこれっぽっちも出てこなかったのが本音
建前と本音のように、弁える文化は美徳とも捉えられる反面、見せかけの殉情さばかりを考えるようになり、人間の真でもある「自己の声」を置き去りにしているような負の相乗を起こしうる弁え方につながる教育だったと強く感じてます。これがあくまでも私のセルフダイアローグから辿り着いた私なりの「自己の声」でした。
まだはっきりと上手く自分の中でも言語化できていない気しかしませんが、言語化しないようかはした方がいいとも学んでいる最中です。
自分のその時の声を大切にするためにも、支離滅裂(?)なこのままでnoteに刻みます。


「対話」こそ、クリエティブの源泉?

何がこんなにもデンマークにいて感じる空気感や民主性を体現をさせているのだろうと思い、気づいた時には質問していました。

まず返答されたのが、

「対話をしなければ何も始まらない。」

ということ。さらに続いた言葉が

「対話こそ、問題解決の根本であることを、対話を通じて学び知ること、それが教育においてとても重要」

と。

この返答を受けて、、、
私が受けた教育の中で対話への重きはどれほどあっただろう…ほぼなかったに等しいと感じた。幸い私の大学はコミュニケーションを大切にしている学部学科で、その時ようやくコミュニケーションや対話の大切さを直に感じたぐらいだ。
それ以前は、コミュニケーションはあくまでも”会話”なだけであって、自分自身がただしゃべっていた生物だったようにも感じる。

と感じ思ったりもしながら、インタビューを進め、点と点がつながった事象があった。それは、

対話をするからこそ、新しいもの(ルールでも、制度でも、自由に表現できようなアートでも)が生み出せることができるようになる。この対話は自分自身に対しても、他者に対しても行うことで、融合が起こり成長する。この融合は時に衝突ともなりうるが、それをいかに対話で建設的に解決へと導くことができるかのスキル(うーんなんかスキルって表現好きじゃ無い)は、他ならぬ、まず対話を始めることから。対話を通じて解決した成功経験が必要であり、フォルケの存在意義はそれにも起因している。そしてこれらは、フォルケを作った先人たちの思いをそのまま引き継いでいる」

ということ。

対話を通じた問題解決の小さな積み重ね、それがクリエイティブへの起爆剤となること、その結果として形状化されたのが「北欧デザイン」や北欧の人のライフスタイルデンマーク人たちの思う「しあわせ」になっているのだと気付かされた。(結局は右脳と左脳は表裏一体なぐらい繋がっていて、どちらかの優位性など無いとも感じるようになっている今。)


「他者を通じて己を知る」

フォルケホイスコーレを一言で表すとすると、この言葉が出てきました。
民主性といっても、自分の軸・信念・想い・思考を理解して初めて民主について考えることができるようになるのではないか、という結論のような疑問が湧いています。

沢山の思考や想いが溢れた記事になっているが、多分これが真の私の頭の中なんだろうなぁと思いながら一旦ここまでとします。

最後まで読んでくださりありがとうございます!!!
つらつらと書き留めただけの今回の記事を、こうして最後まで読んでくださった方はきっと波長が合う気がします。プロフィールに載せているsnsとかでいつでもお話したりしましょう〜


#デンマークの教育 #フォルケホイスコーレ #教育 #民主主義 #自己理解 #記録


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