「やらない善よりやる偽善」についての雑感

ネット発と思われたが以外に古い言葉なのかもしれない「やらない善よりやる偽善」。私はこの言葉自体が嫌いだ。

まずこの言葉の前提としてある「やらない善」。「~より」とあるので、「やらない善」があることが想定されているが、「やらない善」とは何か。簡単に想定できるのはネットや何かで口だけはいいが何も行動しない人。そんなものは何も行動していないのだから善ではない。動いてから言え。

「やる偽善」。これもよく分からない。想定されうるのは某闇営業問題で「社会への禊」のようなよくわからない理由でボランティアを始める、ような流れだろうか。社会がどう言おうが自分が決めたなら善は善で、それ以外の何物でもない。実際に(この文脈で言う)偽善から始まったボランティアを通じて新たな道を見つけた芸人も見かけた。

ただ、本当にボランティアが「社会への禊」のためであり、ほとぼりが冷めたら止めてしまうようなものであるならば、それは偽善であるだろう。そうだったとしても何の問題もない。実際に時間と労力をつぎ込んで何かの善行を行われた対象の人に与えられる何かは、行った人の内心がどうだろうとあまり関係はない場合が多いと思われるからだ。

「善」を行った人の内心をどうこう言うようなわけのわからない部外者がいるからこそ、このような言葉が自然発生してきたのだと考える。「やらない善よりやる偽善!頑張ろう!」のように謎の部外者の考えを気にして一念発起しなければ自分が自由に行動できなくなるよりは、そんな謎の言葉は忘れて自由に自分の考える「善」を行う。それこそが本当の「善」だと思う。

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