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『碁盤斬り』の中に居た、人と世界。

映画『碁盤斬り』。5月の封切りだけど今もまだ、いくつかの劇場では観られるから、エスねぇの家の近くだと、ここならまだ間に合うから行くといい、きっと好きだから。というおすすめメッセージをもらったおかげで、劇場で観ることができた。これは、作品世界にしっかり浸りたい作品だったから、劇場で観ることができて本当によかった(ありがとうございました、Hさん)。
作品を観た後からだが、少し調べてみたところ、元は「柳田格之進」という講談を元にした落語で、それを元に脚本が書かれ映画になったとのこと。Hさんが私に「ぜひに」と勧めてくれたのは落語がきっかけなので、作品ポスターの雰囲気からするに「おもしろおかしい」とは思っていなかったものの、「人情話の中に、人間らしいおかしみのある作品」なのかなと想像していた。

ところが、想像とはまったく違っていて、私たちが「失ってきたもの」を「もう失っってしまったんだよ」と睨みつけるように植え付けてくる、でも、「それはそれで、しかたがないことなのよ」と、睨んでくる相手に話しかけたくなるような、そんな作品だった。

なぜそう感じたのかを書くとめちゃくちゃ長くなりそうなので、大見出しに書いたことを先に書いておく。この『碁盤斬り』という映画に出てくるのは、私が空想してやまない、愛してやまない、落語の世界に出てくる人たち、風景そのものだった。

落語家さんが語る世界、それを、話の内容、顔の表情、身振り手振り、音、少し間を開ける間合い、その日のお着物、観客のみなさんの、笑い、うなり、息を呑む静寂、華やかな掛け声、拍手・・・といったさまざま反応から想像し、思い浮かべ、味わい尽くす。尽くしたい。

だから、あえて、本当の「絵」で確認することは避けてきた部分がある。たとえば、「大門を打つ」という表現。遊郭の出入り口の門を閉じることの大事を表す言葉だが、では、その門とはどのようなものだったのか。Google検索すれば容易に「ああ、こういう門なのか」と像をイメージすることはできるが、そうすると、「大門を閉じざるを得ないほどの大事件」という、物体が閉じるということ以上に大きなことが起きているということの解釈は薄れてしまう。そんな気がして、ググって絵を見てしまうことを避けてきた。

今回、その「大門」に吸い込まれていく格之進の娘・お絹と、それを自分の心根の弱さにまみれながら見送る小番頭、という場面を目の当たりにすることができ、あぁ、大門というのは、本当に結界のように厳格なものなのだなと感じた。あー、こういうものだったのか、とドキドキしながら見た。

他にもたくさんある。
源兵衛さんが、狭い狭い格之進の貧乏長屋で十両を掛けた碁を打つのを、障子の隙間から勝負の行方を見ようとする長屋のご近所衆。顔に炭をつけたような汚れをつけながら、格之進のことが心配なのか、十両ももらえたら自分にもなにか良いことがあるのではないかと期待するのか、やじうま根性で行方を見守る人たちは、まさしく落語の常連さん。そうかそうか、君たちが、いらぬ世話をやいたり、伝言を間違えて事を大きくしたりしてきたのだな。

大晦日の囲碁の勝負が行われる会場の長兵衛さんもそうだ。こちらは落語の中でもかなり威勢のいい人物だ。碁を打つ格之進と兵庫の間にスッと立って勝負を見守る姿は格好良かった。落語にときたま出てくる「粋だねぇ」と胸を高鳴らせる人物は、この人のようだったのだろう。

他にもたくさんある。
季節の変わり目を告げる風鈴の音や、お月見のだんご、はじめて女ぷりを上げる着物にまとったお絹ちゃんの唇に差した紅。

スクリーンに映し出される映像を見ながら、これまで見てきた落語の演目のあのシーンこのシーンが再現されるようで、とても楽しい2時間だった。

清廉潔白。それは誰のためのものか。

ここから、落語と離れてしまうが、この作品を見た後に、割とグッと考えたことを書いておく。「正しさとはなんだろう」というようなことだ。

柳田格之進は清廉潔白の人だ。「武士は食わねど高楊枝」を地で行くような、「店賃(家賃)は滞納してるけれども、せっかく稼いだお金も『尊厳』(あえて尊厳と言わせてもらいます)を前には差し出さざるを得ず、なのでもうしばらく滞納します」という人だ(それを娘に言わせて大家がツッコミにくくするところは、まあまあ姑息だが)。

なんでも「自分ごと」に置き換えて考えてみたい私は、最初の方に出てくる、「自分が勝てば相手に金がいき、相手が勝てば自分に金が入る」という囲碁の勝負を自分に置き換えて考えてみたが、なかなかリアリティをもって想像できなかった。

「勝つこと」を目指すならば全力を注ぐことができるのは当然のことながら、「金をもらう」ことを目指すなら負けなくてはならない。とはいえ、明らかに「負け=金」狙いで力を抜けば周りで見ている誰もが「あいつは金のためにわざと負けた」と気づくのは自明。であれば、「勝つ姿勢をみせつつ負ける」つまりは、相手の力量を願うしかない。

なかなか難しい局面だ。
自分ならどうするか。勝ち負けというか、金のことは忘れ、とりあえずは眼の前の勝負に没頭し、勝負(金の行方)は運を天に任せるしかないだろうか。だが、果たして「眼の前の十両」を諦めきれるものだろうか。中途半端に負け手を繰り出し、格好悪く勝ってしまいそうだ。情けない。

格之進は潔く勝ちを目指して碁を差し、そしてしっかり勝ち、金は手に入らなかった。

こうしたシーンの布石も効き、また、格之進を演じた役者さん(素晴らしかった)から感じる人物描写も効いて、「この人はこの時代の武士らしい、潔い人なのだ」という印象は、このシーンで固まった。

そして、物語が進むうち、「武士は食わねど高楊枝」的な、この人の清廉潔白さは、この時代においても鬱陶しい存在であり、「おまえさえ目をつぶっておれば、みなが幸せであったのに」という局面で、殿様に直訴したり、悪事を詳らかにするなどして、グレーを罰してきたために仲間から疎んじられ、藩を追われることにもなり、恨みを買ってきた人なのだ、ということが描かれる

ふと思い出したのは、企業の採用試験で使われる、DPIという適性検査だ。100問(もっとあったかな)からなる質問に、次々と、「はい/どちらでもない/いいえ」で答えていき、回答の傾向と矛盾(嘘)から人物像を探ろうという、よく利用されている筆記試験だ。

その中に「私は信号を破ったことがない」という設問があるそうだ(随時アプデされているので、今もあるかどうかはわからない)が、これは「いいえ」が、いわゆる正しい答えなのだそうで、つまり、「はい」の◯を塗りつぶす人は、嘘をついているということなのだ。

「一度も赤信号で渡ったことないだと?そんなわけ無いやろ、一度ぐらい、わたり始めるところで黄色になって、横断歩道の半分ぐらいで赤になることは承知の上で、言い訳のような小走りをして渡り始めたことあるやろ」ということだ。これに「はい」と応える人は「自分を正しいと見せようと思って嘘をついている」と診断されるのだ。

格之進はどうだろう?
「はい」を塗りつぶすだろう。しかもそれが真実なのだ。

物語の最後、格之進は、娘の晴れの姿を見届けている真っ最中に、全員に黙ってスッと姿を消してしまう。そして、明確には示されていないが、たぶん、自分が過去、清廉潔白に罪を断罪したことで国と職を追われ、貧しい暮らしを余儀なくされている追放された人たちへの贖罪の旅に、ひとり、出たのだと思う(と私は解釈しました)。格之進は、荒野の枯れすすきの間をワシワシと歩いていき、作品は終わった。

これは一種の罰に違いない、と思った。

格之進は、冤罪と仲間の謀略によって国と職を追われ、妻を亡くした。娘にも、する必要のない苦労をさせてきた。ようやく自分を信頼し、自分も信頼できる友を得て、娘も嫁がせ、これからは安寧に暮らせるかもしれないというタイミングでの失踪だ。しかしながら、それを選択したのも、そうせざるを得ない心情になってしまったのも、すべて彼が清廉潔白であろうとしたからだ。自らが清廉潔白であろうとしたがために、自分も周囲の人々も、不幸にしてしまった。

人によって解釈は様々だと思うが、格之進は、「悪いこと」はしていないけれども、自分の信条によって周囲を不幸にしてしまったという「罪」は犯してしまった。だからあれは、「罪滅ぼしの旅」の始まりなのだと思った。そして厄介なのは、彼はたぶん、「本当に罪を犯した」ぐらいに思っている。それがまた、厄介なのだけど。




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