天使の才能 (9)天使の才能
(9)天使の才能
パフォーマーもオーディエンスも「ワンマン」の屋外ライブを、翌日、キャンパスで行うこととなった。
台風の影響で風が出てきたその日、11時に図書館の前で待ち合わせだった。低い空にところどころ雲が出ているが、天頂に向けて青空が広がり、陽射しは容赦なく降り注ぐ。少し早く着いたボクは、図書館入口の日陰で暑さを凌いだ。
約束の時間きっかりに来た彼女を見て、びっくりした。
白のつば広帽子をかぶっている。彼女の帽子姿は初めて。
ボクが言葉を失って見つめていると、彼女が説明する。
「あ、これですか。天歌でショッピングに行ったときに買いました。『ペンギン・ハイウェイ』のマドンナのお姉さんが、主人公の少年と遠出しようとしたときに被っていた帽子にそっくりだったので...変ですか?」
髪はいつものようには括っていない。ストレートで少し前にも垂れている。彼女の髪先を体の前面に見た記憶はほとんどない。
「...全然変じゃない。とても似合っているよ」
「ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか?」
ギターケースを背負った彼女について、キャンパスのメインストリートを西へ向かう。
彼女はイチョウ並木の下のベンチのところで止まった。
「このへんでどうでしょう。ここなら研究室棟に人がいてもあまり聞こえないでしょうし」
研究室棟との間には校舎が建っている。
「ボクは構わないよ」
「じゃあ、準備しますね。持ってていただけますか?」と言うと帽子を脱いでボクに渡す。
ふだんよりお化粧がしっかりとしている。特にアイシャドウとアイライナー。こんなにぱっちりとした目なのか。と驚く。見慣れているはずなのに見慣れない顔...
...そう。帽子に気を取られて気づかなかった重要なことに、やっと気がついた。
眼鏡をかけていない。今日の彼女の顔には、あのべっ甲柄のウエリントンがない。そうだ。目が普段よりぱっちりとしていると感じたのは、度の強い眼鏡をはずしたことが、大きく影響している。
「あの...眼鏡は?」とボクは少し当惑気味に、ギターをソフトケースから出している彼女に聞く。
「ああ、今日はコンタクトです。昔から演奏するときは眼鏡を外してるんです。やはり、変ですか?」
少し首を傾けるようにしたマイさんの瞳が、キラキラと輝く。
流鏑馬の場面が思い浮かんだ。馬に乗って駆けてくる武者の一人が、翼を背負った愛の神キューピッド。矢を放つ。的であるボクに見事命中し、ボクはきれいに二つに割れる。
「ちっとも変じゃない...とてもいいと思うよ」とやっとのことでボクは言う。
「よかった。うれしいです」とマイさん。
青々と茂るイチョウの木。風が吹いて梢がときどき揺れると、木洩れ日もあわせて揺れる。
今日のマイさんの衣装は、上がレモンイエローにプリント柄のノースリーブのTシャツ。下は薄い紺色のデニム。細くて美しい脚のラインにぴったりとフィットしたスリムジーンズ。
ギターストラップを肩にかけ、愛用のアコギをお腹のあたりに吊るしベンチに腰かけると、彼女は、音叉で「A=440hz」を確認してチューニングを始める。
ボクは立ったまま、彼女の一挙手一投足から目を離せずにいる。
ストラップを調節してピックを持ち、軽く咳ばらいをすると、彼女はボクに視線を向けて、ちょっとはにかむように言う。
「じゃあタイさん、いきます」
Bマイナーのコードを一発鳴らすと、パンチの効いたボーカルが始まる。
躍動的なギターに乗って進む力強いメッツォ・アルト。普段、話をしているときは気づかないが、歌うと、少しハスキーな声が露になる。それが曲の雰囲気にぴったりと合っている。地声の音域から裏声の音域への遷移も絶妙。
ネックに張られた弦の上を軽やかに動き回る左手。右手は激しく、ダウンストロークとアップストロークを繰り返し、1ヶ所だけアルペジオを奏でる。最初に会ったときに感じた、腕の「不思議な逞しさ」は、ギター演奏で培われたものだと納得した。
いつもは決して見せることのない、恍惚とした表情。ティーンズの恋愛を、ちょっと過激に描いた曲の世界に没入している。
スキャットが続く長めの後奏。突然に訪れるエンディング。しばらく目を閉じて余韻が完全に消えたのを確認すると、彼女は目を開く...
おでこにうっすらと滲んだ汗に、ピックを持ったままの右手の甲を軽くあてて、マイさんが口を開く。
「...どうでした?」
「すごいね...キミの、才能」
拍手すら忘れていたボクは、やっとのことで言葉を絞り出した。
「嬉しいです。音楽の才能を褒めていただいたの、久しぶりです」
そうじゃない、キミの...「天使の才能」
なにか言わなくちゃ、と思って彼女に話す。
「夏休みのうちに、図書館巡りをしようと思っている。よかったら...一緒に行かないか?」
ああ、なんでもっと洒落たことを言えないんだ、すぐに悔やんだ。
けれどマイさんの反応は好意的だった。
「ええ。ぜひ、ご一緒させてください」
「じゃあ、最初は国立国会図書館から」
「うれしい。念願が叶います」
ギターを抱えたままの天使の顔に、晴れ渡った青空のような笑顔が広がった。
<第4作 完>
<続く>
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