天使の才能 (4)天使と百鬼園先生と乗り鉄
(4)天使と百鬼園先生と乗り鉄
「二週間に一回くらい、不定期」というサイクルに、「週一回、定期」というサイクルが加わった。
電話番号とメアドは交換していたから、連絡して会うこともできるのだけれど、相変わらず学内で会うのは、神野教授の研究室で顔を合わせるときだけだった。
その日は、4限のゼミが終わったあと6限が休講になったので、夜のバイトまで時間ができた。教授の「口頭試問」を終えて、次の課題を受け取ったマイさんも4限で終わりだったので、一緒に帰ることにした。
レンガ造りを模した校舎の下のアーチ状のアーケードをくぐって、キャンパスの東に面した大通りに出る。学内の静寂から一歩出た途端、都会の喧騒に包まれる。
通り沿いのファミレスに入る。スマホのクーポンで、サラダとフライドポテトとドリンクバーを2つ、マイさんが注文する。ドリンクバー単品と殆ど変わらない値段なのだという。
「サラダはタイさんが食べてくださいね。『図書の選択と収集』と同じくらい『栄養の選択と収集』も大切ですよ」と言ってニコリとすると、彼女はフライドポテトの山を少し動かして、空いたスペースにケチャップを小袋から絞り出す。
高校のバンド仲間とはときどき会っているの? 5人のうち3人が東京に出てきていて、バンド時代からのLINEのグループで連絡を取り合っているけれど、みんなそれぞれに忙しくて、集まって会えるのは3ヶ月に1回くらいだという。
「そうそう、ドラムスをやっていたタエコですけど」
「たしかSH大の理工学部で、ゲームの専門学校と掛け持ちしてる?」
「ええ。専門学校が2年のコースなので、そろそろ卒業制作の準備に取り掛からなければならないのですが、ゲームにどっぷり浸かっている自分たちには、集大成に相応しい斬新なプロットが考えられないって言うんです」
「なるほど、そういうものかな」
「それで、元になるアイディアを考えてくれないかって、あえてゲームとは無縁なわたしに頼んできたんです」
「面白そうだね。それで?」
「そのLINEを見たすぐあと、たまたま机の上にあった内田百閒の「冥途・旅順入城式」の岩波文庫が目に入ったんです」
「百鬼園先生か」
「勉強の合間に一週間ほどかけて読み直して、読後の雰囲気の中で思い浮かんだアイディアをまとめました」
「で、どうだった?」
「気に入ってくれて、それを元に卒業制作のゲームに取り掛かってくれるようです」
「上手くいくといいね」
「優秀な作品は商品化されることもあるらしくて、もしそうなったら、わたしクレジットに載りますかね」
「『原案:坂上 麻衣』とか?」
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マイさんが初めて本格的な文学作品と出合ったのが、「冥途・旅順入城式」だったという。小学校4年生のとき、お父様の書棚を見ていて「『閒』の字がふつうと違う」と思ってその文庫を手にした。さすがに小学生には難しかったけれど、幻想的な作品の世界に得も言われぬ気持ちになった。
内田百閒に出会ったのが、ご両親の仲が破綻状態になって、離婚に向かう時期だったという。一人で過ごすことが多く、子供向けの本はたくさん読んでいたが、この本をきっかけに文学作品にのめりこんだ。お父様の書棚の本から始めて、学校の図書室の本、そして市立図書館に足繁く通うようになった。
「じゃあ、夏目漱石が内田百閒の後だったわけ?」
「ええ。ふつうは反対ですかね」と少し首をかしげながらマイさん。
「鉄ちゃんなら『阿房列車』から入るかもね。そもそも鉄道は人やモノを運ぶための文明の利器。かつて新聞の全国紙が夜行列車で地方に運ばれていた時代もある」
「新聞ですか?」
「そう。停車駅ごとに束になった新聞を、到着するたびにホームに下ろして届けていたらしい。そうして都市からの情報や文化が地方に運ばれていた。人だってそう。本来はビジネスにせよ旅行にせよ、何らかの目的を果たすための移動の手段として鉄道を利用する」
「『阿房列車』は違いますね」
「行った先になんの用事もないのに、ただひたすら鉄道に乗る。手段が目的化することで趣味になる典型だけれど、手段の目的化によって、鉄道は文明のフェーズから文化へと昇華する」
「タイさん、やたらと雄弁ですけど、鉄分高いんですか?」
眼鏡の奥のマイさんの瞳が、いたずらっ子っぽく輝く。
「いささか乗り鉄の気はあるかもしれない。実家に帰るとき、行程の一部を新幹線ではなくわざと在来線に乗ることもある」
「天歌までだったら、全部在来線でも半日くらいかな。一度試してみようかしら」
「車窓を流れる景色を眺め、乗っている人々に目をやって、日が落ちたら軽めの本に目を通す。贅沢な時間だよ」
芥川賞作家で一人挙げるとしたら? と聞くと、池澤夏樹、多和田葉子、綿矢りさ、又吉直樹...と迷った末、マイさんが挙げたのは、小川洋子。
最近読んだ作品では、短編集「不時着する流星たち」の肉詰めピーマンの話。切なくてたまらなくなる絶妙なエンディング。同じく短編集の「口笛の上手な白雪姫」の「かわいそうなこと」。身につまされてならない。
小鳥の小父さんとそのお兄さん、ミーナの「ポチ子」...丹精込めて描かれる、普通でない、それでいて愛おしいキャラクターたち。
初期の作品だと、デビュー作の「揚羽蝶が壊れる時」や芥川賞受賞作の「妊娠カレンダー」。生理現象や家事を丁寧に描くことを通じて、生存が孕む闇の側面が炙り出される。
「家事といえば、家政婦が主人公の『博士の愛した数式』。あれはよかったね」
「『博士の...』も傑作ですけれど...」
そう言いながら、マイさんが挙げた大好きな作品は「ブラフマンの埋葬」。生の営みがすべて死と喪失に縁どられている登場人物たち。その一人である主人公の元に突然舞い込んだ不思議な、そしてなんとも愛らしい生き物。タイトルの予告通り「彼」が逝ってしまうプロセスに収斂される物語のすべてが、山から吹き下ろす風のような、そして泉から溢れ出る水のような透明感を湛えて語られる。
「読み終えた後、涙が滲み出てくると同時に胸が...どう言えばいいんでしょう」
「張り裂けそうな感じ?」
「...言葉にならない言葉の塊のようなものが胸の奥深くに張り付いて、息が苦しくなるように感じました」
タイさんの文学との出会いは? とマイさんに聞かれて、やはり小学生時代に見た親の本棚の本、と答えた。ボクの場合は母親で、手にしたのは堀辰雄の「風立ちぬ」。少女趣味でおかしいかな? そんなことないです、とマイさん。最初の部分はたしかに少女趣味かもしれないけれど、死へと向かう婚約者と向き合うことで生の極限へと導かれた主人公の、深い思索が描かれた作品です、と彼女は言う。
「巻頭にポール・ヴァレリーの詩の一節があるでしょう」とボク。
「堀辰雄が『風立ちぬ、いざ生きめやも』と訳した詩ですよね」
「単語の意味を知りたくて、辞書を引いてみたけれど、全然見つからなかった」
「それって、ひょっとして?」
「そう。フランス語だと知らないで、英語の辞書を引いていた」
「思春期の好奇心旺盛な少年少女に、ありがちな失敗ですね」
梅雨の晴れ間の夕暮れの空の下、二人並んで駅へと向かった。雲の隙間から差す光の筋。たしか「天使の梯子」と言ったと思う。
ホームで待つこと数分。やってきた車両の端に背もたれの低いボックス席があって、空いていたので向かい合わせに座った。
「ちょっとだけ、乗り鉄気分ですね」とマイさん。
「そうだね」とボク。
地下鉄から相互乗り入れの私鉄の路線に入って、しばらく地上に出るところがある。進行方向に座って窓にもたれかかっている彼女の顔に、雲間から届く夕陽の光が差して、そこだけキラキラと輝いているようだった。
<続く>
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作品紹介→https://note.com/wk2013/n/n53a5f5585e6b