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『アンナ・カレニナ』は純然たる家庭小説にして、偉大なる失敗作である、それでもなお… ②



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この濁流の渦巻が――人生そのものであり、橋は――カレーニンが生きてきた作り物の生活だった。
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それでは『アンナ・カレニナ』の第八部の、いったいなにが「失敗」だというのだろうか――。


冒頭から述べてきたように、『アンナ・カレニナ』とは純粋な家庭小説である。

だから作中においてトルストイは、四つの家庭を創出し、描いてみせている――

すなわち、オブロンスキーとドリィ、アンナとカレーニン、それから、アンナとウロンスキー、そして、レーヴィンとキティ――である。

最初の二つの家庭は、物語のはじめからすでに存在していた、いわば古い家庭である。

かたや、後の二つの家庭は、アンナとカレーニンという一つの家庭が「不幸」によって崩壊することで誕生した、新しい家庭である。

そこで、このあまりに有名な書き出し「幸福な家庭はすべて似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」というのは、その後「オブロンスキー家は混乱しきっていた…」といふうに続くように、まずもってオブロンスキーとドリィの家庭について述べられた言葉であるのだが、けっして、そこにとどまるものでなかった。

むしろ、その「不幸」をやわらげ、崩壊にまで至ろうとしていた「混乱」を救うべく現れたはずのアルカージエヴナ・カレーニナ(アンナ)の属していた、もう一つの家庭その方についてこそ語られ、

なおかつ、アンナがそこから脱し(脱しきりたいと苦闘し)、新たに築いてゆく(築ききりたいと懊悩した)、新しい家庭についてこそ予言せられていたのであった。

しかして、アンナとカレーニンの家庭の崩壊という一事件によって誕生し、形成せられていった新旧四つの家庭――アンナとカレーニンは正式に(法的に)離婚できず、そのため歪つな形で残りつづけ、それゆえにアンナとウロンスキーの家庭もずっと歪つならざるを得なかった。またアンナの代わりに、カレーニンには妻的および母的な代役をはたそうとするリーディヤ・イワ―ノヴナ伯爵夫人があてがわれた――が、いずれも「幸福な家庭」たらんと願いながらも、互いに接近したり敬遠したり、そのようにして不和や衝突や和解や訣別やをくり返してゆく姿が、『アンナ・カレニナ』という物語なのである。

であるから猟だの、競馬だの、選挙だのいう諸場面とは、たんなる19世紀ロシア貴族社会の風物詩であり、小説の装飾であり、物語の寄り道であるばかりであり、ただひたすらに、「不幸な家庭は不幸の相もさまざま」という言葉の真実であったこと――少なくとも作中においては真実であったこと――をば、読者が次第しだいに気づかされてゆくひとつひとつの過程、それがこの文学史上まれに見る偉大な悲劇を物語った家庭小説、最大の醍醐味なのである。


たとえば第二部八章を見よ。

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(カレーニン)、この作中の登場人物の中ではもっとも大きな権力を有し、また複雑な幼少期を過ごし、それゆえにもっとも屈折した心をした高名な政治家にして高級官僚たる彼が、妻アンナの不倫を自覚し、もはや見てみぬふりのできなくなってゆく場面のごとき、トルストイの言う「理性で割り切れない人生」との邂逅について、見事至極の筆致をもってしたためえたものと言えよう――

いわく、「カレーニンが妻と話し合わねばならぬと、一人で心に決めたときは、それがきわめて容易で簡単なことに思われたが、いま、新たにもちあがった事態を検討しはじめると、それがきわめて複雑で容易ならぬことのように思われてきた。(中略)…それでも彼は何か不条理な非論理的なものに直面しているのを感じて、どうすればよいのか分からなかった。カレーニンは人生に直面していたのである。彼は妻が夫である自分以外誰かを愛するかもしれぬという可能性に直面し、それがきわめて不条理な不可解なことに思われた。なぜならそれが人生そのものだったからである。カレーニンはこれまでの生涯を人生の反映とかかわりをもつ勤務の世界に生きてきたし、働いてきた。そして人生そのものと突き当たるたびに、彼はそれを避けて通ってきた。いま彼が経験していた感情は、深淵の上にかかった橋を悠々と渡ってきた人間が、不意にその橋がこわれていて、はるか下の方に濁流の渦巻を見たときに覚えるに違いないような感情だった。この濁流の渦巻が――人生そのものであり、橋は――カレーニンが生きてきた作り物の生活だった。妻が誰かを愛することもありうるという問題が、はじめて彼を襲った、そしてそれをまえにして、彼は慄然とした。」…

このようにして、アンナとカレーニンの間に存していた「家庭」は、「人生そのものである濁流の渦巻」によって、「作り物の橋(生活)」を破壊せられてゆく。

破壊せられるばかりか、濁流はあらゆる人々を巻き込んで、ついには、その渦の中心でもっとも激しく、狂おしく翻弄せられたアンナの命を奪い、あまつさえアンナのための新しい夫たらんとしたウロンスキーの命をも、破滅の方へと追いやってしまうのである。


それでは、アンナとウロンスキーの命を奪うにまでいたった、この人生の濁流とはなんであったのか――。

冒頭から述べているように、レフ・H・トルストイは、19世紀ロシアの貴族社会の中にではなく、そこに息づく「閉ざされた家庭」の内にこそ、それを描いている。

これを平たく説けば、おのおのの「家庭」において何者かになり得た、あるいはなり得たフリのできた人間だけが、最後まで「生き残った」のである。

アンナは妻になれず、母にもなれなかった。すなわち、カレーニンの妻になれず、ウロンスキーの妻にもなりきれなかった――法的にも、精神的にも。

さらに、カレーニンとの間の子セリョージャの母には社会的にけっしてならせてもらえず、ウロンスキーとの間の一粒種の母にすら、愛情的にならせてもらえなかった――放蕩夫のオブロンスキーに悩まされながらも、妻として、またそれ以上に母として生きていこうと決心するドリィが、アンナとウロンスキーの新居を訪問し、アンナがウロンスキーとの間にもうけた娘アニィを愛しきれていないことを発見する、第六部十六から二十四章の描写など、たいへんに面白い。(また、同じ第六部の冒頭で、互いに惹かれ合いながらも恋を実らせえず、よって夫婦になりえず、家庭を持ちえなかったレーヴィンの異母兄コズヌイシェフと、キティの友人ワーレンカによる挿話もじつに暗示的であった。)

これと同様に、ウロンスキーにしてもアンナの夫たりえず、アンナとの間に授かった一人娘の父たりえなかった(だからアンナの死後、アニィを引き取ったのはカレーニンであり、ウロンスキーではなかった)。のみならず、アンナと共に暮らすために軍務を退いた彼が芸術活動や、新事業や、慈善活動の方面にも一定の才覚を示しながらも――そしてアンナに至っては一貫してそんなウロンスキーの最良の理解者であり、協力者としてふるまい続けた――いずれもモノにできずにしまったのだった。

わたしは、個人的には、これらアンナとウロンスキーの家庭ないしは人生における出来事の方を、レーヴィンとキティの家庭ないしは人生における他のいかなる諸場面よりも、興味深く読んだ。

かてて加えて、カレーニンの屈折した精神を作り上げたけっして幸せでなかった幼少期についての叙述や、それかあらぬか、妻に捨てられ、捨てられたことで出世の道も断たれたカレーニンに同情し、社会的にも家庭的にも支援を惜しまない「新しい妻」ともいうべき振る舞いに及び出したリーディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人との第五部二十一から二十三章のやり取りの場面のごとき、レーヴィンキティの結婚や、レーヴィンの実兄ニコライの臨終に立ち会った新妻キティの立ち回りや、キティの出産に立ち会ったレーヴィンの祈りやの場面よりも、感慨深く心に残った。

ここに、わたしの言う「失敗」がある。

物語の最後の最後まで崩壊することなく存続しえた、オブロンスキーとドリィという形ばかりの古い家庭、およびカレーニンとリーディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の間の家庭もどき――つまりは、「作り物の橋」をいつまでも保つことのできた家庭――

そしてなにより、レーヴィンとキティという形ばかりでない――と、トルストイが祈りと願いと熱情を込めて描ききろうと苦心惨憺した――新しい家庭――

そんないっさいの家庭ないし人生よりも、自他に対して愚直なまでに誠実かつ偽りなくあらんとしたために、嘘をつけず、フリもできず、罪を犯し、失敗をくりかえし、しかりしこうして、ついに滅んでゆくアンナとウロンスキーの家庭ないし人生の方が、まったくもって生々しい迫力と感動に満ち満ちていた――

ここに、19世紀ロシア文学最大の傑作芸術のひとつ『アンナ・カレニナ』の、無様にして偉大なる失敗が存在しているのである。


重複するようであるが、「人生という濁流の渦巻」なるを、もっとも狂おしく、悩ましく、救いがたいほど痛々しくその身に引き受け、体現したアルカージエヴナ・カレーニン(アンナ)の不条理にして不可解な懊悩煩悶をば、レフ・H・トルストイはよくぞ最後まで描ききってみせてくれたものと信じている。

それゆえに、それの見事であればあるほど、たかが形式上の外貌たるにすぎないのに、社会的な体裁たるにすぎないのに、精神的虚偽の堆積にすぎないのに、ある家庭の夫や父たりえた者、あるいは妻や母たりえた者のみが生き永らえ、そうできなかった者たちは滅び、消え去ってゆくという運命に、一種言うにいえない辛さ、悲しみ、口惜しさを禁じ得ないのだ。

たとえば、第七部二十から二十二章の、アンナの(主として精神的な)窮状を救うべく、カレーニンにあらためて正式な(法的な)離婚を持ちかけるオブロンスキーの一挙一動を見よ。

この根っからの放蕩者にして日和見主義者のごとき、実妹のために心ひとつにして元夫の説得にあたるものかと思いきや、自分の利潤と、利潤をもたらしうる新しい地位の獲得のための利害計算を片時も忘れることなく、心そぞろに、利己的に立ち回っている。

そんな「善良なる俗物」オブロンスキーを前にして、どこかに良心の種をひそめていながらも、己の社会的体面のために心かたくなにし、またかたくなにされるべく、どう好意的に見ても胡散臭い霊媒師でしかないジュール・ランドーのごときフランス人偽預言者の妄言に、耳を貸すように促せられるカレーニンと、そうやって、孤独な彼をまるで裏からあやつりでもするようなリーディヤ・イワ―ノヴナ伯爵夫人と――

ああ、かかる社交界の俗人たちと突き比べてみたならば、アンナにせよウロンスキーせよ、いずれ人としてどれだけ誠実であり、衷心から互いを想い合う愛にあふれた彼らであったことか…!

それでもなお、二人そろいもそろって自他に対してあまりに正直すぎた魂同士であり、互いに対してどこまでも誠実たらんとありつづけたからこそ、すれ違い、憎み合い、衝突し合い、ついには、破滅していってしまうのである。

このような過程と、展開と、そして結末と、いずれいみじくもドストエフスキーの説いた、「それこそロシア的なるもの」に相違ない。

ところが、「その新しい言葉は、ヨーロッパではまったく聞くことのできないものであるが、そのかぎりなき慢心にもかかわらず、彼らにとってはこのうえもなく必要なものなのである」とも言い添えてあるように、あながちそうとばかりも言い切れない、時代や民族の枠を越えた鬼気迫るものが、たしかに存在している。

その証拠としても、第七部をとおして見られるアンナの、ある種狂人ばしった精神世界の叙述とは、後の二十世紀にひとわたり流行った「意識の流れ」なんぞいう小説手法の原型であり、さきがけであり、ひとつの完成形であったと言えるかもしれない。

そうして、そんな狂人精神の「意識の流れ」の、外貌的表現たる言語挙動の一々たるや、はなはだ不条理であり、不可解であったのだ――ちょうど『嵐が丘』における最愛の人キャサリンを失った、ヒースクリフのそれのように。

それゆえに、アンナ・カレニナもまた、ヒースクリフのようなけっして忘れがたく、忘れべからざる文学的印象を心に刻みつける、「強烈無比の自我」だったのだ…!


だからこそ――

ああ、アルカージエヴナ・カレーニナがもしかしたら永遠の命をでも有したような「自我」であるならば、問題の第八部において、物語の表舞台から退場したアンナに次いで主人公の大役を担ったトルストイの分身コンスタンチン・ドミートリチの「苦悩」たるや、まったくもってアンナ・カレニナのそれに対抗できていないのである。

すでにして表舞台から消え去ったはずの死者アンナ、生き残った者たちの家庭にとってはもはや過去の人であり、永遠の脇役たるにすぎないアンナ、そんな古(いにしえ)の亡霊アンナの「個性」によって、今を生きる生者レーヴィンの「信仰告白」は完全に圧倒せられ、喰われてしまっている――

これがわたしの言う、「無様な失敗」である。

レーヴィン(トルストイの精神)は、「アンナ・カレニナ無き世界」において、今の言葉で言うところの「キャラ立ち」もできてもいなければ、主人公としての個性も思想もそれらの表象たる種々の言葉の与える印象とても、はなはだ貧相かつ脆弱である。

よって、彼が彼なりに懊悩煩悶し、自殺の一歩手前まで追い詰められたという精神世界のごとき、アンナのそれように言うにいえない辛さや、悲しみや、やるせなさが足りない――圧倒的に足りないのだ…!

かかるレーヴィンの、あるいは「リアリズムの巨匠」たるレフ・H・トルストイ自身の、致命的に迫真性の欠乏した苦しみのその涯(はて)に到達しえた、「理性によらずもたらされた、ひとつひとつが善の意味を持ちうる生活全体」などいうもの、アンナの非業の最期の与えたる衝撃を超越するような、少なくともそれに比肩するような、どんな圧巻的感動をばもたらしてくれたというのだろうか…!



つづく・・・



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