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アメリカ的な、ひたすらアメリカ的な


年末年始の暇にあかせて、二つの映画を見た――

いずれもアメリカの映画会社から配給され、好評を博した作品ということになっている――「グレイテスト・ショーマン」と、「スリー・ビルボード」とである。

前者は、19世紀アメリカ社会を背景にして、無一文の小男が興行師として成り上がってゆくという、実話をもとにした物語であり、

後者もまた、21世紀当代の、アメリカ某州の田舎町を舞台にくり広げられる、娘を殺害せられた母親を取り巻く住人たちによる凄惨無比の暴力の応酬沙汰である。


わたしはいかなる映画評論家でもなければ、その他あらゆる分野の小銭稼ぎ的批評屋なんかでもありえない、ために、この文章についても最初から最後まで情熱を込めて書きあげたいという意図を職業的に、本能的に、生得的矜持的に(つまり全人的に)有さない。

それがゆえに、あらかじめ結論から述べてしまうものであるが、いずれの二作品についても、わたしは「映画的に」大変面白く鑑賞し、「映画的に」高く評価した、

が、

それは徹頭徹尾、「映画的に」という言葉の網羅し得る守備範囲内に限ってのみそうなのであって、絶対的にそれ以上でも、それ以外でもない。

――これが、わたしが『アメリカ的な…』というタイトルに託した、批判的趣意である。


まず、

「グレイテスト・ショーマン」について言えば、重複するが、19世紀の資本主義社会において一人の興行師が成り上がり、成り下がり、そしてまた再起再生してゆく過程を描いたヒューマンドラマである。

そんなドラマが、人生のめいめいのステージにおいて軽快で、キャッチ―で、リズミカルな「映画的音楽」によって、冒頭から終幕まで飽きさせることなく紡ぎ継がれてゆく――そんな「映画的段取り」を、わたしは評価したというのである。

がしかし、「グレイテスト・ショーマン」なるタイトルの、いみじくも語りかけているその通りに、主人公P.T.バーナムなる男の一生のごとき、徹頭徹尾「興行師」のそれであって、その他のいかなるシロモノでもありはしなかった。

だからして、裸一貫から成り上がり、成り上がった者にありがちな向こう見ずな失敗によってどん底まで成り下がり、すべてを失い尽くしたそのどん底からふたたび這い上がって、再起再生をはたしてゆくのだが――ああ、このアメリカ的な、ひたすらアメリカ的な安っぽくて嘘っぽい筋書きぐらい、わたしを鼻白ませ、ゲンナリさせ、「ノーサンクス」な心組みにさせる人生劇など、当代他にありはしないのだ…!

あまつさえ、そんなひっきょう興行師たる小男の築き上げたる実業について、それこそそこへ見えすいた社会的意義をでも持たせるがごとく、(さもユダヤ人的風貌をした)辛辣なる新聞記者の口をして、「人類の祝祭だ」などと言わせている場面のごとき、これまたお定まりのアメリカ的プロパガンダの、ぷんぷんと漂ってくるようでさえある。

かてて加えて、作中の登場人物でただ一人、真に「芸術的」であったジェニー・リンドなるオペラ歌手――婚外子として生まれ、家の恥として育てられた不遇の芸術家――との関係のもつれについては、満足に描きこめずにしまえばこそ、いつの時代も芸術と興行との間に必然的絶対的に起こらざるを得ない「相剋」を歌いあげようとした「Never enough」なる詩歌(しいか)たるや、その文字のとおりのまま、表舞台から去っていってしまい――もはや、身も蓋もない言い方をしてしまうならば、薄っぺらな、ひたすら薄っぺらなアメリカ的物語の、ああ、その深みの無さといったら…!


19世紀の歴史の大概とは、産業革命によって生み出されたニューマネーの台頭によるオールドマネーの凋落、これである。ニューマネーとは、例えば興行でもメディアでもなんでもいいが、オールドマネーとは、因習的な貴族社会の他いかなる対象ではない。

そんな興亡の様相をば、貴賤双方の境遇からアーティスティックに、かつリアリスティックに描きこんだ作品など、たとえば同時代の文学の世界にならばいくらでもあるけれども、そういう手法の伝統、ないしは精神の伝統は、どうやらアメリカの映画世界においては、深く根をおろすことのなかったようである。

だから、19世紀のニューヨーク社会の成り上がり者の興行師の生涯、というような歴史ドラマ的にうってつけの好題材を見出し得ても、しょせん仕上がって来た作品たるや「興行的」であったばかりで、「芸術的」たりえなかった。

すなわち、「グレイテスト・ショーマン」とは、「映画的」には楽しく、面白く、飽きさせない力を持った成功作であったけれども、人の心を芸術的に深くえぐるような、これといういかなる印象をも残す力を勝ち得なかった、凡庸な、ひたすら凡庸な駄作たるにすぎなかったのである。

それかあらぬか、映画エンドロールの、「もっとも崇高な芸術とは、人を幸せにすることである」だなどいう一節の、聞かされるこちらの方が顔を赤らめてしまうほど情けない、ああ、ひたすら情けない、アメリカ的な「エクスキューズ(負け惜しみ)」に至って……!


――これとまったく同様の事柄が、「スリー・ビルボード」なる2018年アカデミー賞作品についても言えるのである。

「グレイテスト・ショーマン」の観客を飽きさせない仕掛けとして用いたものの、耳目に流れ込むような「音楽」であったとすれば、「スリー・ビルボード」のそれは、目にも耳にも、心にも毒をもたらすような「暴力」であった。

それも、殴る、蹴るといった、作中の老若男女の登場人物に、情け容赦なく加えられる身体的暴力に限らない、器物建造物を打ち砕き、はては炎火を放って燃やし尽くすといった破壊的暴力に、かてて加えて、聞くからに耳も汚れるほど執拗な罵詈讒謗の言葉の暴力――これらによってのみ、作品の鑑賞者は、登場人物たち銘々の、内面的心情を見せつけられ続けるのである。

こういう暴力的な、ほしいままに暴力的な表現、これこそアメリカ的な、ひたすらアメリカ的な手法であり、伝統である。

そうとしか他に換言のしようがない。だって、そんな残虐無道の暴力をば興行的に、これでもかというほど「見せた」という事実以上に、「スリー・ビルボード」の映画的功績などありはしないからである。

きっぱり言明しておくが、数多の批評家たちが賛辞を惜しまなかったあのカタルシス的なオープンエンドについてすら、いやしくもそこに主人公たちのいかなる「人間的変化(成長)」の描かれていようとも、同じその場面にあって、リアリティというものがまったく無い。

百歩譲って、「まったく無い」という言葉遣いの言い過ぎであったとしても、「圧倒的に足りない」という言い方では、それこそ言い足りないのだ。

なぜというに、最愛の娘を惨殺された主人公の母親が、作中、周囲周辺の種々なる人々へ加えてゆく、一種狂気めいた犯罪的暴力について、いずれも法的責任を免れ続けるという、どう色目で見なしてやろうとも、世界一の訴訟社会アメリカ的ならぬアンリアルな諸展開が、三流アクション映画さながらの出来であって、ヒューマンドラマには絶対的にそぐわないからである。

であるからして、そんな四流アクション映画の大詰めにおいて、いかな人間的成長の描写のなされていたところで、それは「ジョーク」として以外に、どのように受け入れてやったらいいというのだろうか…!

だからわたしは、かかる「スリー・ビルボード」なる、もっぱら暴力的シーンにのみリアリティを勝ち得たような、それゆえに鑑賞に苦痛を禁じ得ない悪辣な表現と、非現実的な、ひたすら非現実的なストーリー展開とを、まったく是とできず、ほぼ全面的な駄作として批判するものである。

それでもなお、そんな不出来の極みたる2018年アカデミー賞作品をば、冒頭述べたように、非常に面白く鑑賞し、評価しえたとしたら、それは冒頭より何度も何度もくり返しているように、この映画の内に剝きだされた「アメリカ的な、ひたすらアメリカ的なもの」を否応もなく見つめさせられたからにほかならない。


もはや言わずもがなの、書き重ねるまでもない結論ではあるが、

はなはだ「非芸術的」にして、言おうようなく「暴力的」なるもの――

これがわたしの言う、「アメリカ的な、ひたすらアメリカ的な」、今そこにある現象であり、かつ、現在進行形の現実なのである。

それゆえに、

非芸術的で、凡俗で、安っぽくて嘘っぽく、間々見るに堪えないような、野鄙野蛮の下作でしかありえなくとも、

現代アメリカのみすぼらしき「限界」と、まごうかたなき「本性」とを映し得た映画作品として、いまいちど、

「グレイテスト・ショーマン」、および、「スリー・ビルボード」とを、最大級の皮肉とともに、ここに再評価するものである。




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