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『アンナ・カレニナ』は純然たる家庭小説にして、偉大なる失敗作である、それでもなお… ①
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幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである。
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まずもって、『アンナ・カレニナ』とは、純然たる家庭小説である。
それは、あまりにも有名な上の書き出しの一節、ただそれだけを取り上げてみた日にも、白日の下にさらしたようなものである。
また物語全体をとおしての主人公にして、だからして小説の題名にまでその名を用いられたアルカージエヴナ・カレーニナ(アンナ)が、長日月におよんだ苦しみと懊悩のはてに、ついに非業の死を遂げる第七部に見出される次の一文とて、その明らかな証憑たりうる。
いわく、「家庭生活において何かを実行しようと思えば、夫婦間の完全な分裂か、あるいは愛による一致が必要である。夫婦の関係があいまいで、そのいずれでもない場合には、何事も実行することができないのである。」
この長い、長すぎるぐらいに長い一大長編にわたって、作者たるレフ・H・トルストイ伯爵は舞踏会だの、サロンだの、競馬だの、猟だの、療養地だの、選挙だのと――19世紀当代の、おのれが生き、所属し、悲喜こもごもの時を過ごすにいたったロシア貴族社会の様相をば、次から次へと、さながら絵巻物のように描き継ぎ、くり広げてゆくわけであるが、それでもなお『アンナ・カレニナ』なる物語とは、あくまでもどこまでも一編の家庭小説、すなわち「閉ざされた物語」たるにすぎないのである。
これは、同じ19世紀末から20世紀初頭の純文学、なかんずく、不倫や姦通といった同テーマを扱った作品で言えば、フローベールの『ボヴァリー夫人』や、モーパッサンの『女の一生』、E・ブロンテの『嵐が丘』なんかにも同様のことが言えるし、やはり同時代の日本の小説で言えば、夏目漱石の『明暗』がそれに該当する。
そうして、今ここにざっと例にあげた、いずれも名作とみなされる古典小説の内にあっても、『アンナ・カレニナ』こそもっとも長く、もっとも「家庭的な」文学であるものと言わざるを得ないのだ。
なぜというに、先述のとおり、舞踏会だの鴫猟だの貴族選挙だのといった場面らが、いずれ面白く、筆も巧みに描写せられていながらも、そのような場面のいちいちが、物語それ自体になんら広がりというやつをばもたらしめず、奥行を深からしめるということもない――むしろ、そういう展開をくり返した作者の意図のどこにあったか知らないし、かくべつ興味も抱かないものだが、べんべんと書き継がれたる貴族たちの生活様式と、内的心情との諸変遷が、かえって作品全体を冗長的で、非芸術的なものならしめており、
かてて加えて、作中に登場する種々雑多の登場人物の数に反比例して、すなわち、「登場人物の多様性」という大トルストイ伯爵お得意の手法をば用いれば用いるほど、小説それ自体はいっそうの「閉塞感」を強めてゆくばかりであるからだ。
この閉塞感こそ、わたしがここで「家庭小説」という言葉にこめた、第一義的な言意である。
そうして、これはいささか余談であり、後の文章の伏線にもなるものだが、19世紀ないし20世紀の「家庭文学」の中にあって、わたしのいう「閉塞感」をば、ほとんど感じさせない作品のあるとしたら、それは丸山健二の『千日の瑠璃』それだけである。(少なくとも、わたしはこれ以外のものをひとつも知らない。)
それは、『千日の瑠璃』の主人公として、作者たる丸山は森羅万象とよしみを通じているような魔訶不思議な障がい児、「世一」を創作し、選び出し、初めから終わりまで、可視不可視の両の世界において生き生きと遊ばせ、躍動させ、跳梁させきったからである。
であるからして、『アンナ・カレニナ』におけるレフ・H・トルストイ大伯爵の分身、コンスタンチン・ドミートリチ(レーヴィン)なる地主貴族による、物語全体のしめくくりのおしゃべりであり、もっとも語りきっておきたかった思弁であり、訴えかけておきたかったお説教であるところの「理性によって知ったものでなく、与えられた啓示」とか、「思想では割り切れなかった問題の解答をもたらした生活そのもの」とかいったシロモノのごとき、
『千日の瑠璃』の世一においては、すでにして「生まれながらに与えられた」ようなものにすぎず、かつ、そこにはなんら人の手によって造られたような宗教性や、さかしらな浅知恵のひねくりだしたような文学性をも感じさせるということがない――それこそ天稟の、天恵の、天賦の神秘性の方へと、読者は知らず知らずのうちに目を向け、心を開かせられてゆくのである。
これは、「石には石の魂がある」といった、万物に宿る霊魂の存在をごく自然に受け入れ、まったく非理性的に信じている、いわば日本的な土着信仰の産物であるとも言えるかもしれない。が、そういう日本的とかロシア的とかヨーロッパ的とかいう「閉ざされた世界観」を有した文学ではけっしてない、それゆえに純文学と思わしめる芸術性こそ、『千日の瑠璃』の最大の特長であり、功績なのである。
ところが、そんな『アンナ・カレニナ』よりもはるかに「芸術上の完璧」であり、ずっと「理性を超越した文学」であるところの『千日の瑠璃』にも、弱点がある――すなわち、マンネリズムである。
トルストイは、小説がマンネリズムに陥ることを本能的に恐れてでもいたものか、『アンナ・カレニナ』をその構成において、とてもシンプルな手法をもってマンネリ化から遠ざけしめることに成功している――つまり、一大長編を全八部からなる編成とし、かつ各部をおよそ三十ほどの章に細分化したことである。
もしも『千日の瑠璃』においても似たような編成のなされていたならば、あの一日一章的な、そしてその一章一章どれもがすばらしく、含蓄で、深遠なる小説世界がもっとメリハリのある、もっとドラマチックな作品たりえていたことであろう。が、これはあくまでも手法の問題であり、小手先の議論であり、欲を言えばの話であって、小説の持つ芸術性や文学性の核心をばなんら致命的に損なうものでないのだが……。
いずれにしても、
かかるすべり出しの語調からしてすでにお分かりのことと思うが、わたしは『アンナ・カレニナ』なる古典芸術について、拍手と賞賛を惜しまなかったそのかみの芸術家たちほど多としていない。
というのも、かつて年若き頃ひじょうに労苦して読了したものをば、分別ざかりと言われる壮年に至ってふたたび労苦し、あるいは間々退屈しながら読み返してみたうえで、いかに贔屓的に見なそうと試みてみたところが、「なんだこんなもの、たんなる家庭小説じゃないか」といったもはやごまかすべからざる不燃焼感と、それ以上に、「これっていわゆる、大いなる失敗作ってやつだろ」といった、ついに看過すべからざる認識を新たにせられたばかりだからである。
それゆえに、そんな不満足な小説経験についていまだ記憶の新しいうちに、ここに書きとどめておこうと思い立ち、起筆に立ち至ったというわけだ。
なのでいま一度はっきりと言っておく、19世紀ロシアの最高傑作のひとつであり、数ある世界文学――というもののいかなるものかよく知らないが――の内でも最高峰の芸術のひとつとされているところの『アンナ・カレニナ』とは、純粋な失敗作である、と。
少なくとも、今日ただいまにおける私一己にとってはそうであり、たぶんこれからも変わることなくそうであり続け、よって、トルストイと同時代の、また同国にて活躍せられた某癲癇病み作家ののたまったがごとく、「芸術上の完璧であって、現代ヨーロッパの文学中、なにひとつこれに比肩することのできないような作品である」だなどと思う日は、ついにやっては来ないだろう、
あまつさえ、やはり同時代の欧州の啓蒙主義者ごときのおべんちゃら、「見事な小説、少しの無駄もなく一気に読ませる書物、全体の構造も細部の仕上げも一点の非の打ちどころのない作品」だなどとも、完全に自己を偽ることなしには、それを自分の意見とすることも、できはしないであろう。
そうとはいえ、
わたしが若い頃から敬愛し、今なおそうしている19世紀ロシア文学――たとえばゴーリキー、チェーホフ、ガルシン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、それからプーシキンなど――と、その代表にして象徴的大家であるところのトルストイ自身の名誉のために、こうも言い添えておきたい、
『アンナ・カレニナ』とは、たとえば「戦後日本文学」がごとき凡庸の、十把一絡げの、箸にも棒にもかからんような糞文学なんかではけっしてない、事実はまったくもって、「偉大なる失敗作」なのだ――と。
どういう意味であろうか。
べつだん、難しい理屈ではない――この八部編成からなる『アンナ・カレニナ』の、第一から七の部に限って言うなれば、21世紀のアジアの涯(はて)の一青年が読んでもなおもって面白く、面白いからこそ百歩譲って「芸術上の完璧」とまで賞賛せられていたとしても、決定的な違和感までは抱かせられない。
こと第七部、すなわち、物語の主人公であるアンナが鉄道自殺を遂げるところの描写のごとき、「少しの無駄もなく一気に読ませるほど、全体の構造も細部の仕上げも一点の非の打ちどころもなく書き進められた」と評せられてもいいし、そうせられるべきなのかもしれない。
だからこそ、物語のしめくくりであり、作者トルストイの分身であるところのコンスタンチン・ドミートリチ(レーヴィン)が、「これぞ信仰」というような認識に立ち至り、それゆえに「信仰告白」めいた述懐をながながと書き連ね、そのようにして、この「完璧」にして「一点の非の打ちどころのない」物語が幕を下ろしてゆく第八部が――この問題の最終章が…!――大いなる、あまりに大いなる「大失敗」であったと思わせられてならないのである。
これは例えるなら、ちょうど着地のところで転げかえってしまった、体操競技のようなものである。
つまりは、着地までは、終始巧みにして芸術的な演舞の数々がくり広げられていたところが、肝心要の最後の見せ場において、これ以上ないというぐらい無様な、みじめな、そして滑稽極まりない大失敗を、露呈してみせてしまったのである。…
つづく・・・