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京都散歩④ 相国寺から西陣へ

今日の出来事。京のできごと。

令和6年11月12日(火)

 今日も今日とて、京都へ出かける。

 季節はすっかり秋めいてきて、過ごしやすい日々が続いている。
秋といえば京都、京都といえば紅葉だ。
今年も日本中、世界中の人々が京都に詰めかけるに違いない。
紅葉を眺めたい気持ちはわたしもやまやまだが、人混みは天敵である。
人に揉まれずにゆっくりと紅葉狩りができる場所とタイミングを模索せねばなるまいと、そう思っていた折、どうやら見頃にはまだ早いらしいということを知った。

であれば本格的に秋の行楽に出かける前に、行けるところに行っておこう。
前回行きそびれた相国寺に向かい、その後は西陣の辺りを散策することにした。


寝不足学生と赤レンガ。それから禅寺。

臨済宗相国寺

 時刻は9時半ごろ。
例のごとく京阪電車に乗り込み、出町柳へ向かう。

 平日の朝少し遅い時間だが、乗客は多め。
どうやらちょうど大学の2限にあたる時間のようで。
10時半に駅に到着し西へ歩き出すと、同志社大へ向かう眠そうな学生の群れに呑まれることになる。

相国寺総門

 参道は短く、赤レンガの美しいキャンパスを両手に少し歩くと相国寺総門に辿り着く。

 実際に足を運ぶまではよく分かっていなかったが、相国寺の参道は御所の北門の前から、同志社大のキャンパスを貫くように通っている。
こんなに大学に密接した位置に禅寺が建っている(あるいは、その逆)のはなんだか不思議な感じだ。
歴史ある大学であることを踏まえると何かしらの謂れがあるのかもしれないが、同志社はキリスト教系の学校だったような気もする。
まあ実際に通っている学生からすると、「なんか近くにデカい寺があるんだなぁ」くらいにしか思ってないのかもしれない。

法堂(無畏堂)

 相国寺は臨済宗相国寺派の大本山である。
かの足利義満の発願で、金閣寺や銀閣寺も相国寺の塔頭であるとのこと。

 禅宗のくせに金閣寺は金箔張りにしたり、京都五山とかいって寺に序列を作ったりと、いろいろと俗っぽいところがある(とわたしが勝手に思っている)臨済宗であるが、伽藍は禅寺らしい質素で渋い趣きである。
昔建築の勉強をした時に禅宗様(唐様)なんて言われてもよく分からなかったが、あちこちの禅寺をまわるうちに、だんだんとその良さを感じられるようになってきた。

法堂

 相国寺秋の特別拝観では、本尊を祀る法堂、講堂たる方丈、開山の夢窓疎石像を祀る開山堂の3ヶ所を拝観できる。

 法堂の天井には巨大な龍の絵「蟠龍図」が描かれており、堂内のどこにいても眼が合うようになっている。
筆のタッチはとても力強くて荒々しい。黒くて無骨な龍は金色で端正なお釈迦様と対比的で、それがこの場所を特別にしていると思う。
天井板が湾曲しているために、堂内の位置によらず龍の首が同じ方向を向くように見える。
顔がにょーんと伸びたり縮まったり。
他の参拝者の方も何度も行ったり来たりして、その変化を楽しんでいた。
お釈迦様の少し前に立って手を叩くと、堂内に音がよく響く(鳴き龍と呼ばれる)。
ちゃんと手を叩けるか、ちょっと緊張した。

方丈

裏方丈庭園

 法堂の次は講堂であるところの方丈へ。
文字絵の法華観音図はとても美しく、南北の庭も素晴らしかった。
何よりも水墨画の襖と畳の空間が本当に綺麗で、その静謐さに一瞥しただけでため息が出てしまう。
わたしに日本人の血なんてものが流れているのかどうかは分からないが、ただそこに身を置いておきたいと、求める心がある。

 方丈には売店があり、ここで御朱印をいただくことができる。
お線香とお守りもあわせて購入。他にもお菓子や数珠なんかが売られている。

開山堂

開山堂 龍淵水の庭

 開山堂は相国寺開山の僧、夢窓疎石の像が安置されたお堂である。
方丈と同じく枯山水の美しい庭が広がっていて、腰掛けて休むこともできる。
法堂では残念ながら椅子が使用不可にされていて坐ることができなかったので、これはありがたい。

 大師の像もそこそこに、座禅を組むことにした。
時間は11時半ごろ。柔らかい陽射しがとても暖かく、美しい庭には風の音と鳥のさえずりだけが響いている。
本当に心落ち着けられる空間で、ここでなら永遠に坐り続けられるような気にさえなってくる。
他の参拝者もちらほら来られたが、わたしが坐っていたこともあってか静かにしていただけた。

 名残惜しいが、昼からも行くところがあり、ずっとここにいるわけにもいかない。15分ほど坐ったところで開山堂を出ることにする。
途端、ツアー客らしき人の群れがぞろぞろと上がってきた。
静かで穏やかな時間を過ごせたことに感謝する。

西陣あるき

晴明神社

 時間はちょうど正午に差し掛かったところ。
相国寺の西門から出て、同志社大の美しい赤レンガのアーチを横目に、西陣の方へ向かう。

 京都御所の西側、千本通や大宮通り、堀川通りが走るこのあたりは、かつて平安宮の大内裏があった場所。
現在では住宅地だが、名高い西陣織の産地として古い織物屋が軒を連ねており、付近には古い寺社も多い。

 わたしのケチな趣味の中には一応着物があるのだが絹物にはあまり興味がなく、というか高いので、着るのは安くて地味な木綿やウールばかり。
そんなわけで、西陣織には後にも先にも縁が無いわたしは、西陣織会館を横目に通り過ぎる。

おんみょうじ?

 途中、晴明神社へ立ち寄る。
陰陽師といえば安倍晴明が有名、というかそれしか知らない。
そもそも陰陽師もよく分からないし、それを祀った神社にどんなご利益があるのかもさっぱりである。
そんな晴明神社であるが、平日にもかかわらず境内は若い女子でそこそこの賑わい。
売店には色とりどりのお守りが並び、それを売るバイトらしき巫女さんはひどく気だるげである。

 これは以前の下鴨神社でもそうだったし、後で立ち寄る天満宮でもそうなのだが、この「俗っぽい感じ」が実に神社らしくていいと思う。
といいつつも、若く華やかで騒がしいのは苦手。
陰陽師に特に用事はないので、一瞥して次の道へ向かう。

西陣織のまち

 ガイドブックに沿って横神明通、大宮通、今出川通に戻って智恵光院通、上立売通り、そして千本通へ。
西陣は先の通り住宅地で、通りが狭く建物が密集していることもあって、これまで行った京都の街並みともまた少し違う雰囲気を感じる。

多少遠回りになってもガイドブック通りに進むのは、そこに編集者の意図があるのではないかと思うからだ。
たくさんある京都の通りの中であえてその道を選んだ理由。
読者に見てもらいたかった景色。
誌面に載せられなかったが、感じてほしかったことがあるのではないか…。

それは多分わたしの考えすぎで、実際はそこまで考えてないだろうし、考えていたとしても「作者の死」からは逃れられない。
本当の意図をわたしが拾ってあげることはできない。
それでも、「本を読んでこの道を歩いてみましたよ」と伝えれば、書いた人のやりがいに繋がるのかもしれない。

釘抜地蔵

釘抜地蔵(石像寺)

 千本通を北上すると、釘抜地蔵と呼ばれる小さいお堂に辿り着く。
弘法大師による開山の浄土宗の寺院で、「苦抜き」が訛って「釘抜き」になったとか。
お堂は豪華な作り。頭すれすれの高さに大きな赤提灯が下げられ、外壁には釘と釘抜きの絵馬がびっしりと貼り付けられている。

 社務所に入って御朱印をお願いすると、御朱印帳を預けてお百度参りをするよう促された。
わたしのような若い人がやってくることが珍しいのか、御朱印だけ目当てにちゃんとお参りをしない輩が目立つのか、けっこう神妙な面持ちで「最後までお参りできますか?」と訊かれたので、もちろんですと応える。

 お百度参りは数え年(今年の誕生日+1)の数だけ竹の棒を持ち、お堂を時計回りに周って1本ずつ棒を返していくというものだ。
ここに参られる方の平均年齢を思えば少ないほうだとは思うが、それでも数十本の竹の棒は両手いっぱいに抱えるほどになる。
小さなお堂、1周するのにかかる時間は1分もないが、それでも2〜30分はかかるだろう。

 いつもよりゆっくりとした足取りでお堂を周り、一礼して竹の棒を返していく。
何度も何度も同じところを歩いていると、その度にいろんなものが目に入ってくる。
建物の作りや装飾、お地蔵さん、壁に書かれた文字、阿弥陀三尊像、そのお召し物の色やかたち、木々の生え方や色づく葉、病に苦しむ参拝者の祈る姿。
1周回る度に気づかなかったものに気づき、いまここをゆっくり歩くことそのものを感じることができる。

 竹の棒には寄進した人々の願いや年が書かれたものもある。
昭和二十何年、五十何歳、病が治りますように…。
今では遠い昔に、釘抜き地蔵に願いをかけた人々の思いがそこには残っている。

もちっとした書体が印象的

千本閻魔堂

春の狂言が有名らしい

 千本通をさらに北に行くと、千本閻魔堂(引接寺)がある。
その呼び名の通り、閻魔法王を本尊とする真言宗の寺院だ。

 人は死ぬと閻魔大王の裁きを受け、極楽に行くか地獄に堕ちる…という死生観は有名で、わたしも子供の頃に誰かからそう教わったように思う。
実際のところ、これは今の日本でどれくらい信じられているのだろう。
嘘をついた者は下を抜かれるなんてのも、子供を躾けるためのものとも言える。

 そもそも仏教的にも六道輪廻で、人の行く末は極楽と地獄の二元論ではない。
釈迦は死後のことについては無関心だったそうだし、それは今のわたしにとっても同じだ。

 そんなわけで、千本閻魔堂はちらとだけ覗いてすぐ後にすることに。
何か法要があるのか、お堂には年配の人たちがたくさん集まっていた。

千本釈迦堂

大報恩寺本堂

 すでに疲れてきたが、今回の散歩もやっと後半といったところ。
七本松通りを下っていくと、千本釈迦堂(大報恩寺)の参道が見えてくる。
今回の見どころは今年国宝に指定された木造六観音像。
社務所に御朱印帳を預けたら、宝物殿へ向かう。

 六観音像の写真は撮れないので、感想だけを簡潔に書いておく。
仏もすごいが、何よりこれを人が作ったのだという事実に圧倒された。
何も生み出せない凡人中の凡人たるわたしに比べれば、他人のあらゆる創作活動が感嘆の対象になりえるのだが、この6体並んだ観音像を見て到底同じ人間の業とは思えなかったのである。
六道の衆生を救う観音菩薩、それぞれに異なる造形の美しさに、誰もが目を奪われることと思う。

鎌倉観音six

 六観音像以外にも、地蔵菩薩や誕生釈迦仏立像、金剛界大日如来像、不動明王像など教科書的な仏像の数々が間近で拝める。
般若心経にもその名が登場する舎利弗像は、意外と悪人面で印象的だ。

北野天満宮

 散歩コースのラストは北野天満宮。
受験も無いし天神さんに御用は特にないのだが、広い境内は散歩には悪くない。

 天満宮は学問の神様ゆえに、参拝客も若い人が多いと思う。
今日も遠足で来たらしき中高生が嬉々として境内を散策する姿が見られた。
七五三の時期ということで晴れ着の子供と家族も見られ、秋晴れのもとなんとも浮ついた雰囲気が漂う。
やっぱりわたしは神社より寺で黙々としているのが性に合っている。
一応記念に御朱印をいただいたが、今後は不要かもしれない。

無限あわ餅

 すっかり時刻もおやつ時だ。天満宮の前にある「粟餅所 澤屋」でひと息。
ガイドブックの散歩コースはこの店でシメとなる。
餡ときな粉の粟餅は素朴な味わいで、満足度が高い。3つで650円だが、不思議とボリューム感がある。

わたしのよくないところは、1人であるが故に休憩を取らないこと。
誰かといれば喫茶店や茶屋でちょくちょく休憩しながら進もうという気になるものだが、そうしないせいで無限に歩いてしまう。
1時間程度と書かれているルートも、実際に参拝しながら進んでいくと2、3時間かかる。
いつもはそれをぶっ通しで歩いて疲労困憊、という体たらく。
2ヶ所に一回くらいは休憩を挟んで、気力を回復させる必要をひしひしと感じるこの頃である。

法輪寺

8000体のダルマに囲まれる

 天満宮に着いたあたりで正直疲れていて、帰ろうかと思ったが餅を食って回復。
最後の目的地、法輪寺(だるま寺)へ向かう。
天満宮からは南へ歩いて12分ほどで、西大路通からちょっと東に入ったところにある。

天井にも達磨の絵

 達磨堂に足を踏み入れると、ものすごい数のダルマさんに囲まれる。
大小さまざまなダルマが所狭しと並ぶ様は異様に見えるが、そこには静謐な空気が流れている。
それにしても、何をどうしてこういう状態になったのだろう。

 菩提達磨はインド出身で中国禅宗の開祖とされる伝説的な僧侶である。
釈迦が悟りを開くために行った修行のうち座禅を重要視し、時の皇帝に無功徳を説いたという。

 この「無功徳」というのは恐ろしくも凄まじい言葉だと思う。
自分が救われたいという欲に基づいた善行、功徳など無意味であるというこの言葉は、「良いことをすれば良いことが返ってくるよ」なんていう素朴な道徳心に切り込んでいく。
神社やお寺に足を運び、神仏を拝んでご利益を願い、御朱印をもらって「何か良いことがあるかなぁ」なんて思う。
そんなことには意味がない。それでは真理は悟れない。
ただ坐ること。自分の内に答えを見出すこと…。
達磨大師の言葉を胸に刻みながら、日々穏やかに過ごす方法を、自分にとっての真理を見つけていきたいものだ。

 枯山水の庭は見事。他にも参拝客はおらず静かに坐るには最高だ。
陽も少し落ちてきて、涼やかな風が吹き、近くの幼稚園からは子供の声が聴こえてくる。
穏やかで美しい場所で坐っていれば、何もしなくとも心が落ち着く。
近所に住んでいさえいれば、毎日でも通いたいものだ。

 衆聖堂にも多くのダルマが安置されている。
2階はキネマ殿といって、俳優や映画関係者の位牌が祀られている。
しかし、1番の見どころは等身大の涅槃釈迦仏像。
布を身体にかけられ、穏やかに横になっている金色のお釈迦さまを間近で拝むことができる。
まるで生きているかのような存在感に、思わず感嘆のため息をついてしまった。

どれも魅力的で選ぶのが大変

 社務所に戻って御朱印をいただく。
するとお寺の方が大きなバインダーを2つ取り出してきて、「お好きなものをお選びください」と仰る。
バインダーには何十枚もの書き置きの御朱印が収められており、一枚一枚に微妙に表情が異なる達磨が手描きされているのだ。
呆気に取られているとお寺の方は「驚かれたでしょう」と微笑んで、すべて住職が描いたものなんですよと教えてくれた。
逡巡してなんとか1枚を選び、法輪寺を後にする。

やっぱり禅寺は面白いなぁ。
禅が本当に自分の進む道かどうかはまだ分からないけれど、今日ここに訪れることができたことは、本当に良かったと思う。


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