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エッセイテーマ:大切なもの 「鳩を喰った男」 土梅実

 曩時(のうじ)、武張った男がもてはやされる時代であれば、豪傑の端くれぐらいにはなれたであろう堂々とした体躯を持ったS野という友人がいる。
 その男は20代前半の頃にはプロキックボクサーとしてデビューする。その後、勝率も良く所属ジムでは会長に期待されていたが、キャリアの途中でケガをしたことで引退した。
 引退後は、S野が好きな車やバイクに携わる仕事をしている。
 
 S野を中心に、20年来の付き合いとなる私の友人たちの紹介をしたい。
 
 S野との出会いは高校時代だった。
 私は数学が嫌いなくせに、なぜか工業高校の機械科に進学した。そこは男子校でクラス替えがなく、結果として濃密な人間関係が築かれた。
 高校時代を表現すると、「モノクロームで、好奇心と性欲と葛藤しながら、暇を持て余したモラトリアムな三年間」だった。自分でも、よくわからない表現だが、今考えるとそういうことなのだ。
 
 S野のことを書く前に、どんな校風で、どんな学生生活だったか紹介したい。
 入学してまもなく、工業実習の授業があった。工業高校出身の方ならおわかりになると思うが工業高校のメインとなる授業だ。工業実習があるから工業高校として成立する。
数々の工業高校漫画で描かれているが、この科目だけは絶対にサボってはいけない。朝から昼まで4時限続くので、1日休むと4時限分の単位を失う。単位数不足で進級や卒業ができなくなってしまうからだ。
 登校意欲のない、私や他の生徒に担任の先生は「工業実習だけは出席しろ」と口を酸っぱくして注意していたものだ。お陰で高校中退せずにすんだ。
 
 工業実習を受けるときには、綿で出来た紺色の工業作業服に着替えて同じく紺色の帽子をかぶる。溶接作業等もあるため、防火性だ。作業服の色は科によって決まっている。ちなみに機械科以外に、建築科、土木科、化学科がある。
 紺色の工業用作業服に着替えた時点で「どこの少年院に入れられたのか」と思い、全員がお互いに顔を見合わせて苦笑いをする。
 他人の目を気にする思春期真っ只中の男子高校1年生には恥ずかしすぎる格好だった。その反面、不思議なもので周りが全員同じ服装となるので妙な連帯感も生まれる。
 これは最初の軽い洗礼だった。
 私が最初に受けた工業実習の科目はヤットコ作りだった。
 ヤットコとは、長さ40㎝くらいの先端が平たくできている鉄の鋏(はさみ)で、用途は工作用の鉄棒や鉄板を保管場所からヤットコで挟んで引っ張り出す。
 ヤットコの作成方法は、鉄棒を石炭加熱炉に入れて、鉄の先端が真っ赤になったら金床の上におきハンマーで力一杯叩いて伸ばす。十分な長さになったら、今度は先端部分を平らに形成していく。左右対称に2本作り、真ん中に穴をあけて留め具を付けると完成となる。
 鉄を叩く場面は、刀鍛冶の作業を想像していただくとわかりやすい。
 革手袋を使用するが石炭加工炉は数千度に達して、一歩間違えば重度の火傷を負ってしまう危険な作業だ。中学校までの技術の授業とは比較にならないほど工業マンに生い立てる作業となっている。(校歌の歌詞に「工業マンに生い立とう」とある)
 しかし、衝撃をうけたのは、こんなことではなかった。
 授業開始時にそれは起こった。
 私たちは横一列に並ばされて、初授業ということもあり、担当先生は怖そうであり、実習場の工場のような雰囲気も手伝い緊張していた。
 工業科目専門担当のI井先生が簡単に自己紹介をして、最後に「ゲヘへ」と笑った。何かがおかしいと思った。漫画表現以外で「ゲヘへ」と笑う人がいるのかと戸惑ったのだ。この人悪人じゃんと、思ったのもつかの間、I井先生は点呼を始めた。
「30番」と生徒を番号で呼び始めた。最初にはっきり呼ばれた友人は、すぐに自分の出席番号と気づき慌てて「はい」と返事をした。(クラスを6名のグループに分けて順番に実習していくため30番からとなっている)点呼は続き「34番」と呼ばれて、私も「はい」と返事をした。
力強くはっきりと番号で呼ばれたことで、「あぁ、ここは本当に少年院だったんだ」と全員に落胆と自虐的な笑いの空気が流れた。
今考えると少年院でも番号で呼ばれることはない。番号で呼ばれるのは強制収容所くらいなのだ。私は強制収容所高校出身です。
その後に判明したことだが、他の工業科目専門の先生は名前で点呼しており、工業高校だから番号で呼ぶのではなく、生徒の名前を覚えるのが面倒なI井先生独自の出席の取り方だとわかった。工業高校は先生も個性的だった。

 S野の話に戻りたい。S野の特徴として立派な体格に加えて、常識を突き破る奇行が多いことと、誰に対しても臆することのないコミュニケーション能力の高さがある。
 高校を卒業後、十数年経った時、S野が仲の良かった友人の実家を訪問して、「〇〇君いますか?」と、その所在を確認して廻った。どの家も急に大男が息子の所在を訪ねるので何かの詐欺か脅迫かと思い、最初は訝しく思ったが、やわらかい物腰と訪問した目的を丁寧に説明して、自分の身分も明かすので心をほぐして、親たちは息子の連絡先を教えた。
 その後、S野から10人前後の友人に連絡があり三十台の初めにまた再会することができた。こういうことにマメに動いてくれる男なのである。奇特な行動が良い方向に出たエピソードだが、もちろんこれだけでは終わらない。
 
 さて、S野の奇行の「?」と思うエピソードについて紹介したい。
 あれは平成7年、私が高校2年生の12月のことだった。
 放課後は高校の近くの海岸で、釣りをしたり焚火をしたりして友人たちと過ごすことが多かった。その日の放課後も、5、6人で海岸に出向き、寒いのでコンビニでおでんを買ったり、釣った魚を食べもしないのに焚火で焼いて暖を取ったりしていた。
受験をしない工業高校生は、とにかく暇を持て余しており、ろくなことをしない。
 陽も落ちて寒さが一段と厳しくなったころ、S野が唐突に、「俺、泳ごっかな」と言い出した。
 冗談だと思った。
 私は意味のないことはやらない質で、この寒い中で泳ぐ理由が一つもないと思った。
 海は、寒風で白波が立っていた。
 全員一瞬なにを言っているか理解不能となったが、気合の入った角刈り頭のN村が「泳げ、泳げ」と、人の悪い笑みを浮かべて囃し立てた。N村は極寒の海で人が泳ぐのが見たいだけなのだ。70年代後半生まれの男子高校生は悪のりこそが面白く、とんねるずとダウンタウンが最上の笑いだと思って生きていた。
 
 N村の言葉に勢いをえたS野は「ちょっとあの防波堤(テトラポット)まで行ってくるわ」と言うと靴を脱ぎ、学ランとズボン、肌着を脱ぎすてトランクス一枚になった。
 そもそも水着もない。
 靴下も脱ぐと、そのまま波打ち際に歩いて行き、手でそっと水をすくうと心臓に遠いところから体にかけた。(そこはちゃんと水に体を慣らすのかよ)と内心突っ込んでしまったが、躊躇なく海に向かえるのが、凄い。
 膝まで海に入ると「さみぃー」と一言呟き、腰の深さまで歩くとそこからはクロールで泳いでいった。
 その突拍子のない行動に、一同笑い転げた。
 常識と荒波を打ち破る男、S野。
 海に入ると沖合300m位にある防波堤を目指して一直線に進み、S野は宣言通り難なく防波堤に上陸を果たした。
 S野はテトラポットが積みあげられた防波堤の一番てっぺんまでよじ登ると「おーい」と両手でこちらに手を振った。私たちも、それに答えて全力で「おーい」と手を振った。皆、腹が砕けんばかりに笑っていた。一通り手を振り終えて、当たり前のことだがS野は、こちらに戻ってきた。
 この行動になんの意味があったのだとS野が防波堤から戻ってきたときも考えてしまった。
 「さみー」と体を震わせながら焚火にあたるS野の横顔には、寒さに耐えながらも何かを成し遂げた充実感と笑みがたたずんでいた。
 タオルもなく焚火にあたりながら体を自然乾燥させていたS野に「なんで急に泳ぎたくなったの」と聞くと「いや、なんとなく泳ぎたかったから」との返答だった。
 ウケ狙いでなく、あくまで自分の気持ちのおもむくままの行動を取るところがS野らしい。
 こんな寒中水泳は罰ゲームかイジメで強要された場合しかやらないだろう。そう思ったが刺激的なひとときを授けてくれたので今ではS野に感謝している。
  
 もうひとつS野との思い出を紹介したい。
 高校3年生の夏休み明けのことだった。
友人たちと夏休み中どのようにすごしたかを報告し合っていた。
 S野は、夏休みは暇なときには自宅の近くの公園にテントを張り一晩過ごしていたとのことだった。
丁寧に言ってホームレスなだけのこの話に、私は「家で寝ればいいじゃん」などと身もふたもない相槌を打ちながら聞いていた。
 夕食を作るエピソードの時に私は耳を疑った。
「鳩いんじゃん。捕まえて喰ったよ」
「え、鳩喰ったの」
「うん」
「どうやって」
「焼いて」
「え、どうやって捕まえたの」
「素手で。まぁ羽むしれば普通に喰えるから」
「いや、羽はむしると思うけど、普通は鳩喰わねぇから」
「いや、焼けば喰えるから」
「そうだけど、喰おうとしないから」
「いや、俺は喰うから」
「そうか……。(絶句)」
 鳩は公園などにたくさんいて食べようと思えば食べられる。S野は私に単純明解なことを教えてくれたまでだ。

「素手で、捕まえられるわけないじゃん」
「いや、捕まえられるよ。今度見せてやるよ」
「どんな味だった」
「え、ふつう」
「ふつうって?」
「ふつうに鳥の味だよ」
「そうか……。(絶句)」

 後日、一緒に公園に行ったときにS野はおもむろに鳩をつかみ捕まえた。
そーっと後ろから鳩に近づいて、ふわりとつかむのだ。
私の目の前にS野は鳩を差し出した。
「ほら」
鳩は大人しくS野の両手に包まれている。
「お、おう。喰うの?」
「いや、今日は捕まえただけ」と、そっと鳩を逃がした。
 その後も、S野はその辺の鳩を捕まえたり逃がしたりを繰り返しており、鳩って人間側のちょっとしたコツと手づかみにする覚悟があれば捕まる鳥なのだな、今日、S野に捕まった鳩たちは、喰われなくて運が良かったなと思った。
 常識にとらわれず、鳩に一瞬油断させるくらいやわらかな手触りができる男、S野。
 彼のお陰で、私は寒中水泳をノリで実行できる人がいること、鳩は覚悟さえあれば素手で捕まえて自分で捌き食べることができることを学んだのだ。
 彼は、私のモノクロームな学生生活の1頁を印象深い思い出として刻み込んでくれた。
 その他、S野は夏休み明けに、「子連れ狼の大五郎」の髪型(どんな髪型かはググって)でやってきた。それはともかく、N村とS野が会話しており、私は少し離れた場所からなんとなく眺めていた。S野の発言にN村が気に入らなかったか、N村がS野のこめかみにハイキックを放ちクリーンヒットしていた。ハイキック直前の会話は聞こえなかったがS野は「ごめんごめん」と言ったあと何事もなかったかのように会話を続けていた。N村の激しい突っ込みである。そんな光景が高校の日常だった。
 
 前述したように、S野のお陰で友人たちが再開して定期的に集まるようになって10年ほど経つ。
 ありがちなことだが、高校の友人と会うと当時の気持ちに戻る。でも、あの時に感じていた思春期特有の自己主張やイライラは、今はなく、穏やかにみんなで健康診断のときに、何の数値が悪かったかを競って話している。
 どうして高校時代の友人とはリラックスして過ごせるのか考えたが、自我の一番強い時期を一緒に過ごしたことが大きいと思う。
 私は高校時代、モード系の「キレイめ」と呼ばれる格好に憧れていた。原宿に買い物に行ったが、緊張して店員さんと上手くコミュニケーションが取れずに、サイズの合わないピチピチのズボンを購入した。それを履いていたので周囲の失笑をかっていた。今でも「ファッションリーダー」と友人達にいじられていると、当時の何とも言えない恥ずかしく甘酸っぱい気持ちを思い出すのだ。
 S野や私だけでなく、他の友人たちの恥ずかしい話や、赤裸々な性への渇望を目の当たりにしてきた。
 高校1年生のときの社会科見学の帰りに、友人たちとAVを買いに行くこととなった。
 お店は老婆が一人で切り盛りする小店舗で、商品は全てが、その手の本やビデオだった。仲間内の誰がこの店を教えてくれたのかは忘れたが、買うときに年齢のことを注意されないとのことだった。同じような店が4件ほど連なっていた。

 この手の店に買い物にくることは、一人ではなかなか勇気がいることで、購入時に18歳に満たないことを指摘されることは何より恥ずかしい。私自身もこの頃、近所のレンタルビデオ屋にAVを借りに行き1度目は成功した。気を良くして2度目に借りに行ったときに前回と同じレジの中年女性に「あなた高校生でしょ。これ借りられないわよ」と、呆れたように叱るように冷たく言い放たれた。周囲に人もいたため、羞恥心でいたたまれない気持ちになり、不愛想な不貞腐れた表情をして「あぁそうなんだ」などと意味不明な言葉を吐き捨て、その場を立ち去った記憶がある。

 私たちにとって、その場所は楽園だった。
 穏やかに和気藹々と、各々どのAVを買おうか思案していた。当時の私たちは、ラーメンと炒飯セットを欲するように、自然にAVを欲していたのだ。
 その中でも印象深かったのが、M崎だった。彼は野球部に所属しており、いつもは部活漬けで一緒に行動するのはこの日が初めてだった。中学からキャッチャーをしており小柄だが、がっちりしている豆タンク体形だ。
 M崎のAVを選ぶ眼光は誰よりも鋭く緻密な計算をしているようで、あたかも勝負どころの重大な配球をしているようだった。
 彼は昼食代を毎回1,000円もらっており、なるべく安く食費を浮かせて小遣いに回していたのだ。ハードな練習をしており食事量も普通の男子高校生の2倍は必要であった。のちにM崎の家に泊りに行ったときに朝食にカレーの大盛りを出されて辟易したことがある。それが彼の普通盛りなのだ。まさに食欲と性欲の板挟み状態だった。
 M崎は、顎に手を当てて無言でAVの棚を見つめていたが5分ほど悩み2本のAVを選んだ。会計時にも、鋭い眼光は崩れずに老婆に差し出した2,000円と、お釣りを受け取る手は小刻みに震えていたのだ。会計を済ませて店の外で私たちと合流したときの難関を乗り越えてAVを手に入れたM崎の笑顔は今でも忘れない。
M崎にとって人生で初めてAVを買った瞬間に私は立ち会えたのだ。
 ちなみに、その後、制服で行っても普通にAVを売ってくれた。店主からすれば制服だろうが私服だろうが売れればいいのだ。
 その店で、500円のお釣りの替りに、韓国の通貨500ウォンを出されて、気づいたが珍しかったのでそのまま受け取ってしまったことがあった。あとで調べると500円の半分以下の価値しかなく大損だった。その店の思い出は事欠かない。私も、なかなかの常連である。
 当時は酒も煙草もAVも店主の倫理にまかされて販売されていた。

 高校の友人たちとは、お互いに恥部を知り、受け入れあったので今の関係性があると思う。
 ご理解いただけないかもしれないが、私にとって高校同級生は、今でも、とても大切な友達だ。
 
 新型コロナウィルス流行もあり、先日3年振りに友人4人とN村の実家でバーベキューをした。
 そのとき、S野は七輪で丁寧に全員の肉を焼いてくれた。
「俺はいいからみんな食べてよ。良く焼かないと腹壊すぞ」と鳩を喰っていた男とは思えない言葉で私たちを気遣ってくれた。
 話が進むうちに、S野は40歳になったばかりの頃に、消化器系の大病を患い手術をしていたことを告白した。
 皆、S野の現在の病状や、今後の病気の再発やリスクなどを聞いてS野の体を気遣った。何度かの質疑があり、リスクが低いとわかると「まぁでも、鳩とか喰ってんから、病気になるんだよな」と全員が口を揃えて言い本人も含めて全員が納得した。

 バーベキュー終盤、七輪でアヒージョを作るときに、私がニンニクを鍋に投げ入れると「そっーと入れなきゃダメだよ。がさつだなぁ」と高校時代一番がさつだったS野に注意された。
40歳を過ぎた現在、 私が一番成長していないのかもしれない。

「なんでもいいけど、みんな健康で長生きしろよ!」 心からそう思う。


エッセイ「大切なもの」~鳩を喰った男~ 
書き手:土梅実


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