八代亜紀が死んだ日
2月のある日、八代亜紀が死んだことを退勤直前に知った。
その日は、日中、仕事で、書類の不備をつよめに指摘された。前向きに捉えようとするものの理不尽も感じ、こんな統一されてないルールの中で全部に完璧な正解出せるかよ、とか思うけど、そういう仕事ではある。し、意識の問題でもある、ともおもう。その頃の私は、好きだったひとに急に去られて、というか私がぶん投げたせいなんだけと、それの影響で、それ以外のさまざまなことがらについて、思考停止してしまっている自覚はあった。よくない、ということだけは強烈に思うのだが、どうしようもなかった。
帰宅途中、電車の中でなんとなくTwitterを開くと、ある人が、八代亜紀の歌うオーバーザレインボウを追悼ツイート(だじゃれ感が否めないがポストと言う気が起きない)していた。私は人のツイートする曲をいちいち聴く方で、なぜならそこには単なる発見のほか、そのひとの個人的趣味が潜んでいるからで、人によっては、下着の中を見るよりも、覗き見感がある。(現実的には、下着のなかはそうそう見ない、てか見ない。もののたとえ)
ゆっくりとピアノが奏でるメロディに、八代亜紀の情緒ある柔らかな歌声が調和して、耳に流れこんでくる。あまりの扇情的かつ淑やかな雰囲気に飲み込まれ、涙が溢れてきた。このままでは電車で泣いてるおばさんになってしまう。てかもうなってる。脳裏に好きだった人が浮かぶ。あんなに好きだったのにもう関係ない。約束をして会うことももうないし、話すこともない、触ることも触られることもないのか。
八代亜紀の歌声は耳から皮膚から入り込み、私の思考をやんわりと拘束してゆく。いないのに。いないのにだよ?いないのに。八代亜紀はもうこの世にいない。いなければ八代亜紀にはさわれない。それなのに、さわれないのに、八代亜紀のほうからわたしに、柔らかく触れてくるのだ。好きだった人はこの世にはいる、いるけれど、いてももうさわれないし、もう触れても来ない、関係ない人になった。では曲のツイート主はどうか。ツイートしてるんだから存在しているだろう、この世にいる、いるけど、やっぱりそれだけじゃさわれない、だけど亜紀をとおして、そとひとはわたしを少し良い意味で触れてくれたということになる。
つまりここでは、この世からいなくなった八代亜紀という存在がカギとなり、いまのわたしをどうにかしているわけだった。八代亜紀、すごい、美しい歌、ありがとう。本気で思って、冥福を祈りたい気持ちになった。
さわる、という意味では、私がじかに触れることができて、そしてその確かさを感じられるのは私の肉体だけだった。大丈夫なの、もういい加減目を覚ませば。もう3ヶ月もたつんだよ?そう思って私は車内であるにもかかわらず太ももを右手で掴む。強く。もっと強く。爪を立てて掴むと、痛いと感じる、いまこの世でこの痛みを感じているのは究極的に例外なくあたりまえだが、私だけである。噛みつかれて嬉しくて泣いてる私を、じぶんに取り込みたくなるようなかんじになるのなんなんだろなー、と言った好きだった人を思い出す。痛くてうれしいとかなんなんだろなー、謎だなー、わかるー、ウケるー、ばかばかしい。
しだいに、泣いているが笑う、超笑う、笑う感じになってくる。物理的にもひとりだが、この概念上のあり様はなんだ、と思えた。感情の私的深さに比して、あまりにもひとり過ぎるではないか。何一つとして誰一人として。滑稽。家族?夫?そういう存在がいたらひとりじゃないって?じゃあ言う?わたし好きなひとともう会えなくなってつらい、どうか助けて気を紛らせて、とか、言う?そんなこと家族じゃなくても普通言えないじゃん、好きな人と会えなくなってつらい、は言えても、助けてとか言えない、なぜならば、助からないからだし、そげなくだらねぇことは誰にも助けられないからである。それに、なんと言ってもとにかく、筆舌に尽くしがたいほどにばかばかしい。既婚者の失恋、という社会的に悪、かつ意味不明、のフレーズ。二の次どころかこの世でもっとも不要な類のつらさである。こういうつらさにたいし、電車の中で爆誕する安易な絶望あるいはぽぽぽぽポエムが、そこらへんで大量生産されるのは、個人的処方としてあり寄りのありだからです。そっちの方が良いですよ結局は、それしかないのよ、釣り合う安さって。
って、そのまま放置して脳みそを勝手に稼働させていると、八代亜紀の存在、好きだったひとの不在、スマホの向こうの誰かの40分前の選択、即ちそれは八代亜紀のオーバーザレインボウをツイートしたというその選択、それらの結果としての、私の涙の意味など、この世にそもそも存在しない、だとすればなんという自由、やったじゃん、泣いてろ、感じてろ、好きにしてろ、勝手にしやがれ、もうしてる、となってくる。
あの日、月が出ていたか、それとも雨降りだったか、いまはもう思い出せない。八代亜紀の曲は美しいけれどもう私を泣かせない。八代亜紀をツイートしたひとは優しいひとである。八代亜紀を追悼したその行為で、私にそっと触れた、という点で。
好きだったひとはもう、虹のむこうに見えなくなったのか、あるいは、はじめからいなかったか。からだじゅうを責めまくる日差しと熱い空気のなかを歩いている今は夏、彼はまるで、本当にいなかったみたいだ。だけど汗だくで歩きながらだんだんとわかってくる、そんな気がする、たぶんはじめからいない、はじめからいないのである。
はじめからいない。異なる暮らしを持って、不在をつなげて、いるような気がして、そしてみないつか、"はじめから"いなくなる、のだろう。それまでは、いなくてもこころはあるらしい、人間だから感情はあるらしい、みえないしわからなくても、それはあるらしい、いなくてもあるらしい。たくさん刹那的優しさに気づくといい、面白いともっといい、それで、私も優しくしたい、けど、それはいつすればよいのかがよくわからないし、私のそれがひとにそう思われるかもぜんぜんわからない。くだらないばかばかしいこの世には不要な類のことが、わたしには急に必要事項になっちゃうんだからしかたないよな。べつにいまつらくない、ぜんぜん平気だけど、しいて言えば、なんかさみしいのだ。
今日は豚モツを、思いついてトマトとニンニクと玉ねぎで煮た。天才的。みなさまおしあわせに。
(八代亜紀さんに、ひとりの視聴者として、敬意を表します。ありがとう)