人の価値(基本)②
「リハビリテーション原義主義」では、人の価値について、
人は他者と関わりあう上で、皆それぞれ、良いところと悪いところがあって、その比率は、”6(良い)対4(悪い)”とする事で観念を固定する。
「リハビリテーション原義主義」は、個人の”強み”をなるべく正確に捉えて、それを頑なに支援する考えである。
故に、誰しも良いところは悪いところを少し上回っているという、人の基本構造についての定めが必要なのだ。
互いにそう信じようとの、人としての優しさ・寛容の要素が、この考えの核心部分にはある。
その「良いところ」について、
「良いところ」には必ず義務が伴い、義務的に良い行いを果たした上で評価される。
「良いところ」については、法を順守して普通に市民生活を営んでいれば、10のうち”6”はあると固定する。
最高は”9(良い)対1(悪い)”だ。10はない。人間は生きていれば、全くの善人はおらず、また、全くの善人を求めるものではない。
生きる事は綺麗事ではない。必ず悪い部分を持ち合わせる。
生きている人間をまるで、完璧な善人・神様の様に扱う事は、不安を緩和する為に人間が行う間違いの方向性であるが、その個人の不安を緩和するのは、決して特定の宗教組織等ではなく、個人の自分らしさを認めて尊重する、健全な一般社会である。
「良いところ」の”6”以上は、社会的地位が高くなる程、”義務”として大きくなる。
つまり”6”以上あれば、それだけ社会に評価される形で、良い考え・行いを義務として、社会に還元しなければならない。
”6”以上の「良いところ」を持つ善人を、主体的に目指すのではなく、社会から客観的に評価された割合にかなった
おそらく、必要分以外の私財を社会に提供し、自身は社会ボランティア的な行いをたくさんしなければならないだろう。
残された人生の相当分の時間を、家族、子孫だけでなく、わが国の繁栄の為に、自ら費やすのだ。
家族や子孫には、金や権力だけでなく、社会貢献の為に、自らの身を投じる事の大切さを説くのだ。
成功の頂点に昇り詰めたら、育てた後進に道を譲って、自らは社会の最後尾に下り、
「良いところ」の相当分の義務を果たすべく、良い行いとして再び社会を底辺から支える様な関わりを始める。
頂点に立った者が、金や権力を使って行う事はせず、自ら再び社会の底辺に廻り、社会を下から支え、持ち上げる。
この偉業は社会で共有され、わが国の未来にも語り継がれるだろう。
この生き方こそが、最も誉れ高い生き方とする。
子供たちにもそう教えたい。