いじめとは存在の共食いである
今回は「いじめ」の解釈について考えを述べる。
「いじめ」は、個人に対して傷付ける事を目的とした攻撃である。
私自身も、小学生高学年の時に、クラスメートから陰惨ないじめを受けた。
その時に受けた心理的傷害は、治っておらず、時間とともに大分傷は癒えたが、半世紀近く経った今でも、思い出すと心が痛む。忘れる事はこの先もないだろう。
私はいじめを受けたこの時代の思い出を、心の中から消している。
その時代に、私らしい私はいなかった事にしているのだ。
それは、著しく私らしさが損なわれたからである。
自分らしい自分の「存在」の一部が損なわれたので、「存在」の全体像を辛うじて防御しているのだ。
私を攻撃し、心理的傷害を負わせた「いじめ」については、
正義の所在を明らかにして自分らしさを復する、リハビリテーション原義主義に基づくリハビリテーションは全く進んでいない。
改めて、
私の主張する「リハビリテーション原義主義」とは、
わが国において医療福祉分野の意味で通っている”リハビリテーション”を、元々の意味である”復活”や”復興”に回帰すべくその意味を再編し、「(苦難にあっても)再び自分らしく生きる」という個人の意思と、それを適切に受容する社会の在り方を、本来の”原義に基く人生のリハビリテーション”として、その価値を強く提示する考え方である。
もし人生において、自分の存在を揺るがすような”苦難”に苛まれ、自分を見失う事があっても、皆が再び当たり前に「自分らしく」生き続けるという、人生のリハビリテーションを個人・社会相互に包容する社会価値を創造するものである。
リハビリテーション原義主義の根幹をなす重要な概念に「存在」がある。
「存在」とは個人に対する社会の客観的な概念である。
私は、「いじめ」の解釈を変えたいと思う。
いじめとは、文部科学省の定義においては、
「一定の人間関係のある人物から、心理的もしくは物理的な攻撃を受けたことにより、精神的苦痛を感じているもの」
とされている。
著しく不十分な内容であると思う。
精神的苦痛とはあくまで感覚であり、その原因が語られていない。他者から”攻撃”されて自分の何が傷つき、”苦痛”を感じたのか、大事な部分が欠落している。いじめの問題性が全く表現されていないのだ。
私は、いじめによって傷つくのは、自分の「存在」であると考える。
いじめと、は、社会がひとりひとりの存在の置き場所を保証しない事によって起こる。
窮屈な小集団の中で起こる、限られた存在保障を奪い合う小爆発、言わば”存在の共食い”である
傷付けるなんて、生易しいものではない。”共食い”だ。
自分の自分らしさの「存在」を認めてもらえなくて、飢えている者が、人の「存在」を食って、飢えを満たそうとしている。
相手の「存在」を認めるどころか、亡き者にして自分に取り入れようとする状況は、もはや異常心理である。
攻撃する(いじめる)側の、精神病理学的な問題の解決が早急に必要で、医療化する事が強く望まれる。
一方でいじめの問題は、個々の問題に着目していては根本解決には至らず、
改めて、個人・社会における「存在」の認知・保護・尊重を基本とした、リハビリテーション原義主義に基づく社会価値の形成こそが、いじめの根本解決に至る唯一の手段であると、改めてここに訴えるものである。