メタバースに浸かる前に
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・仮想現実の海で起こる心理作用
先に断っておくと、私はまだその海に浸かっていない。
何年もPCが壊れたままだから。
アプリで体験できるメタバースはいくつもあるらしいけれど、私は先月盛り上がったVCR GTAを見ていたので、世界観に触れたくてGTA3のアプリ(普通のゲーム)を入れてみたが、キャラ作成もなくいきなりカーチェイスが始まったので、大車輪してすぐやめた。
ARKの時はアプリでも十分楽しめたから、今回も有料ならそこそこできると思ったのですが。いきなりストーリー展開されるのはちょっと意識が違っていた。そもそも交流できないのだから意味もない。
その前に見ていたVCR RUSTも面白かったので、アニメよりな世界より実際の都市の中でサバイバルできるような臨場感ある世界が好きみたいだ。
タブレットなら操作も簡単でどこでも参加できるし、PCありきじゃなくメタバースアプリがもっと常時接続できるような展開になって欲しい。
メタバースの世界では、現実に近い線引きや制約がある事も重要で、自由過ぎてもつまらなくなってしまう。それでいて現実では起こり得ない事が可能になる自由度が絶妙な感覚を与えてくれる。これからはゲーマーに限らず、もっと沢山の人が入り込むことになるのだと思う。老若男女、仕事のほとんどはAI、私たちはworldcoinというBIで暮らし、死なない医療も発達して、永遠の命ある体もしくは脳で、永遠にメタバースに生き続けているかも知れない。それは覚めることのない明晰夢で暮らす感覚に近い。スピリチュアルで言われていた5次元世界とはこのことなのではないかとも感じる。
メタバースができる前から、いくつものアバターやアイコンを作っていて常に悩んでいた事がある。自分のキャラに寄せるのか、それとも離れるのか。
ゲームという枠を超えて、仮想現実で他者と交流する時、人は自分をどう見せたいのか。
自分に寄せるのであれば、完成度に不満が残ることが多く、かといって精度が上がれば顔出しとの違いがなくなるので匿名性は薄れてしまう。こっちを希望する人は非匿名で構わないのだと思う。2Dや3Dのアバターはというと、自分とかけ離れていればいるほど、自尊心の低下や現実逃避の度合いが強まる事で心理的に何かしらの障害が起こる危険性がある。
リアルな繋がりがある狭いコミュニティなら関係ないが、始まりから終わりまで全てが匿名の状態で、リアルな第二生活を送る人がこれから増えていくと考えると、オンライン依存が高まって抜け出せなくなる人も増えるのではないか。
リアルの自分は食べて排泄するだけの体になり、メタライフを超えることのない現実をどうやって倉庫にしまっておくか、早く消えてくれないかと考え始める人が増えてしまわないだろうか。リアルですれ違う誰かがメタバースで有名なあの人という現実は既にあっても、全てを確かめる事はできない。
メタバースの可能性が広がるほど、何かが削れる法則があるとしたら、一番影響を受けるのは個人の価値観や心理状態だ。好きなブランドの服も直接着るのではなく、メタバースの公式ショップから購入しデジタルの自分に着せるようになる。リアルの姿がどうなるかというと、冬はユニクロ、夏は裸だ(過)。外に出なくなれば、そんな風に、尊厳らしい何かも仮想現実に移行していって、皆同じとなれば特に違和感を感じないかも知れない。家に篭っていると、筋力と共に心の耐性も脆くなる。家で全てが完結するなら、リアルでのアイデンティティは不要になっていく。これはとても自然な事かもしれないけれど、これは、それでいいのか、という問いだ。
・仮面を脱いだ時、それまでと同じように愛せるか
人間である私たちは、仮想現実であっても、誰かに興味を抱いたり、好意を抱いたりする。そして、その人が実在するのか、実在するとすればどんな人なのか、AIではないのかと確かめたくなる。確かめられたとしても、マスク恐怖症のようにイメージと違うことを恐れるようになる。博愛や自信といった人間本来の強さをなくした先にある姿は、リアルが不十分であるほど、危ぶまれる事態なのかもしれない。
これは現実世界でも昔からあった感覚でもある。自分が愛されているのは若いから、収入があるから、能力に長けているから、様々な理由で求められ、ないと分かると離れていく。
仮想現実で発揮している能力や容姿も同じで、その枠組みの中で得ている立ち位置である事に変わりはない。メタバースで意気投合し、会おうよとなった時、思考が止まる瞬間があるのではないだろうか。マスク社会で私はそれを経験した。受け止める覚悟を持っても、相手にその器がなかったら、関係はそこで終了する。
その時は、なんてくだらない自分になってしまったのだろうと嘆いた。
中身は遜色ないその人そのものであっても、見た目がアイドルのようなアバターと全くかけ離れた人物がそこにいたとしたら。
リアルでも繋がっている人たち、初めから顔が認知されている配信者などは関係ないかも知れない。しかし、そうでない人口がいることも確かで、そうなった場合、その人たちはその現実から全速力で逃げなければならない。
気付かないふりをする。現実でも見知った人に対してやっている事を、ここぞとばかりに発揮するようになる。
もちろん、そんな必要のない人が多数だとは思いたいけれど、人はそんなに強くない。仮想現実に浸る時間が長ければ長いほど、現実から離れれば離れるほど、人と対峙する能力は衰えていく。そうなった時の選択肢は、<永遠にメタバースで>という一択になる。
自信がない場合なら、可能な限り逃げるべきだとは思う。自分の心の崩壊を防ぐことを優先するべきだから。私はそうなりたくないので、リアルでの暮らしを怠らないようにしている。
自分を磨くことも、人と関わることも、なんでもないような事、これからは関係なく思えるような事ほど、必要であると思っている。些細な日常は無意識に自分の中にインプットされ、それらの記憶は夢で整理され、次の日の自分に引き継がれる。そうして自己形成は続いていく。
とことん身バレから離れて墓場まで真の姿を隠そうとする場合、互いに顔も背格好も知らないままパートナーとして一生を過ごすカップルや友人ができるかも知れない。パートナーが病気になったとか、事故に遭ったなどをSNSで知る。個人情報保護法がもっと強まれば、たとえニュース記事になっても、内容によっては、本名や年齢のように、顔も伏せられるようになっていくのかも知れない(アバターが出回るなど)。葬式にも行けないとか、こういった事例が増えれば、冠婚葬祭も企業ベースでメタバースに移行する流れになるのだろうか。
いずれにしても、情報だけの世界とはそういうことだ。
しばらくはリアルとメタバースの二重世界を生きながら、世界が変わっていくのをただ見ているしかない。
・非接触の先にある孤独
世界的には人口が増えている。国内で人口が減ることについては、私は問題がないと思っている。食料危機が緩和されること、環境改善につながること、他にもあるとは思うけれど、個人的には、観光含め街に人が多過ぎて単にイライラする。税収や防衛問題等は一旦置くとして、経済が原理から崩壊すれば必死に稼がなくてもいい時代が来るかも知れないし、死んでも生きても、なるようにしかならない局面ではあれこれ考えないのも一つだと感じる。
この局面を生き残った人たちが、徐々にメタ世界に移行していくのだとしたら、心と体にはどんな変化が来るだろうか。何年も何年も家にこもり続ける生活を大多数の人が送るようになったら。コロナでの経験がヒントになるかと思う。
まず私のようにPCが使えないなどの理由でオンライン交流がなければ、どんなに1人が好きでも心は簡単に衰えていく。日常がなくなり、誰かと電話しても会話のネタが徐々に尽き、オフライン作業もやがて集中できなくなって、私は数ヶ月でギブアップした。給付の壁を無視してでも、人と会いたくて仕事を再開した。社会の適度な圧や単純なコミュニケーションは、人である以上は切り離せないという結論だった。クリエイティブな人ほどそうだと思う。
ただ、浅い関係が特効薬になりはしても、やはり深い関係性が不可欠だとも思う。年齢を重ねると、友人との交流では足りないと感じることが増える。家族が老いていく間に家族を作るという普遍的な幸福は、そういった根源的なことだったのかも知れない。何事も遅い事はない。けれど、ないままの人生も覚悟する世代にいる。人は常に誰かと出会い続けなければならない生き物だとつくづく思う。面倒だと感じても、煩わしいと思っても、人なのだから仕方ない。自分の身の世話だって面倒なのだから。
目を合わせること、物を手渡すこと、表情をみせ、声を発して、肌が触れ合うこと。
この感覚刺激は、失われていけばいくほど尊くなり、必要なのだと思わされる。
リアルな匂いから遠ざかると、いざという時、野生の獣に出会ったように恐れたり、嫌悪するようになってしまう。嗅覚は五感の中で唯一記憶に作用するので、実際の匂いに慣れておく事はとても重要だと思う。それ以外の感覚も、新しい刺激をインプットしたり、自分という人間を更新する為には必要で、何気ない出来事も嫌なことも、もしゼロになれば喉から手が出るほど欲するようになる。そうでない場合、心は既に病んでいる。
絶対にそうならないと信じていた自分が気づいたのは、単にそれまでの人間関係が煩わし過ぎただけ、という事だった。
人によって程度は変わるし、年齢でも変わっていく感覚だけれど、ゼロも過多も良くないというだけで、リアルだろうとメタだろうと、頭と心の許容バランスや、リアルでの刺激や癒しは有機生命体であるなら避けられない。
自然に触れる事や、ゆっくり入浴することも、一度心が壊れてしまうとうまく出来なくなる。
だからそうなってしまう前に、日常から常に取り入れておく必要がある。
鬱々となってしまった時、人に会うことで改善するか悪化するかは環境に依存する。早い段階で健全な場に身を置ければ良い変化に転じるし、不安定な環境であれば悪化する。
・30代以降で変わること
現代は、これまで以上に先人が言っていたことを振り返る時代であるとも思う。
不安、恐怖、無力感に人は勝てない。
人に会わないでいると、顔も手足も筋力が衰えていく(メタに生きるなら関係ない?私はいやだ)。そして、考えたくもないけれど、内臓や消化器官だって、機能低下だけじゃなく物理的に弛んでいく。それは密接に心へと影響していく。
部屋が荒れることも同様に、心に影響する。私は体が動かない時期があるため、タイミングを見計らって定期的に人を呼び、強制的に片付ける機会を作っている。思ったような環境じゃなくても、理想的な生活じゃなくても、今できることを探して行動するのが近未来サバイバルであり、這ってでも健全なメタバースを目指すのが現代人の要だと思う。
健全な世界で素敵な人たちと出会いたいから。
男女差や実生活の環境にもよるけれど、中年期に差し掛かると、如実に変化するのは体力だけじゃない。ストレスフリーでも、突然心が壊れることがある。楽しくても疲労は脳に蓄積されるので、健康管理に気を使っていても、突然不調が訪れて、検査しても異常がないことが増える。原因がわからないので、年齢ですねと言われる。対処ができないので、自分であれこれ試してみる事自体がストレスになる場合もある。
考えないのが一番だけれど、あまりにも長い期間続けば、生活もままならなくなっていく。お手上げ状態になったら、やはり専門機関を受診するしかない。心の障害ステージが進んでしまうと、末期の病と同じように手の施しようがなくなっていく。そうなれば人は突発的に、あるいは症状の果てに、どちらの世界からも繋がりを断ってしまう。
これまでの世知辛い社会なら、同じ境遇の中で、慰めたり救うことも可能だった。でもメタバースにおいては、一体どうやって救えばいいのか。"そこ"にしかいない、会ったことのない大切な仲間に対して、言葉や声以外で、一体どうやって寄り添ってあげればいいのか。
リアルでの繋がりを持つことが重要であるけれど、繋がりがない人はSNSやオンラインの没入時間を意識したり、あるいは一時的にシャットダウンして、自分で自分を救うしかない。
たとえすぐに助けてもらえるような絆や関係性が周囲にあったとしても、いざ助けを求めるのというのは、自分が思っている以上に困難だから。
・重い腰を上げる時
楽観主義でいても構わない。でも、人と関わる勇気が薄まり、リスクが高まっていく中で、恋愛をして、友人を探して、困っている人に直接手を差し伸べることを、私たちは少しずつ忘れていく。文字を書くことも、言語を学ぶことも、機械がやってくれるようになっても私はあえて続けていきたいと思う。趣味でもいいから、前時代的なことを生活に取り入れるべきだと感じるのは、新しい時代への拒絶ではなく、積極参加のためにむしろ必要なのだと思っている。
Stray(ストレイ)というゲームでは、人間の文化を持ったロボットたちが登場し、服を着て詩を読んだり、ギターを弾こうとする。人間の意識は形骸化しても尚、意味のあるなしに関わらず何かをやり続けようとする。多分、一つ一つの事に特別な意味はない。この感覚自体は人間の証明だとも思う。自分の意識を機械に宿した時、その線引きは議論される。いらないと思う感情はいくつもある。本能の名残というだけなら、取り払ってしまえばいいと思った事もある。でもそれで楽になるわけでもなく、それらの感情がなくなれば、人は再び欲する生き物だと思う。
世界は、つべこべ言わずにメタにこいと言っている。身識を含む、五感を灯し続けようという取り組みは傍目には皆無だ。睡眠を管理したり、栄養や運動を意識するプログラムはあるけれど、それで健康にはなりはしない。私はその前にするべきことがあるような気がしている。
脳ばかりが積極的に交流をしていっても、五感を疎かにして非接触になればなるほど、やはり人は壊れてくと思うのだ。
私はコロナ後の数ヶ月で孤独に降参したが、メタバースがあったらずっとそこに浸っていたと思う。でも体はそれに追いつけない。数十年規模でこれからの人たちの暮らしがそうなっていくなら、マーケットがヘルス関連にシフトしたのも頷ける。でも、風や土の匂い、花の色、遠近から響く音、すれ違う人、待ち合わせる人、誰かと食事することは、液晶を眺める時間と同様に、時間を区切って意識する重要性が高まると思う。人と深く暮らすこと、繋がっていく事は、やめてはいけないし、諦めてもいけないし、怖がってもいけない。
情報の危機管理と共に、現実世界での直感も鍛え続ける必要がある。両手放しで飛び込む前に、人間であるが故の性をもっと追求し、どちらも謳歌するのが今の所、これらの問いに対する答えとしている。少なくともこの肉体から解放されるまでは。
勿論、個々の選択は自由だ。