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価値観は壊すためにある


崩壊を望むものたち

もっと自分の殻を破って己を晒けだしなさいという事を、人生で一、二度は言われたかもしれない。
その時は言われた事にだけ腹を立てていた。
今は、ドロドロした剥き身の自分が出てくるだけだけど、それでもいいんですか?と言いたくなる。自分を出さないのには理由がある。
今でも、どうでも良い場面では当たり障りのない私を思う存分発揮している。
かつて怯えていたのは、世界を信用していなかったからだ。
よく酔ってる時の方が面白いと言われていた。
それは束の間に世間をシャットアウトができていたから。
今はほとんど飲まなくなったけれど、私は世界を信用している。
世界とは自分であり、自分は信頼に値する。

価値観とは守り続けるのではなく、壊し続けることに意味がある。
破壊され、新たな概念となって初めて、今この瞬間の自分が存在する。
固定された価値観に囚われても、それは古ければ古いほど、意味をなさない。
過去の偉人たちの思想や哲学も、幾つも取り揃え、その都度着替えて、アレンジする。
大袈裟な作業は必要ない。今日の自分と合致するアイデンティティで一日を過ごせばいい。

いろんな自分がいると、自分で自分を救えるようになっていく。
そしていくつも揃えられた価値観たちは、それぞれが常に崩壊を待っている。
私という人間は毎日生まれ変わるのだから、アップデートされた自己認識・世界との同一性と共に、似て非なる自分を積み重ねながら、人生のスパイラルを上がっていく。
"昨日は地獄だった"、"今日はなんとなく気分がいい"。
もしかすると、そういったブレは価値観のフィルターをかけた自分が、それに見合っていないだとか、今はなんとか追いつけているだとか、他世界基準による判定をしているのかもしれない。そうだとしたら、その価値観がどうであろうと、今すぐにぶっ壊す必要がある。


選択と覚悟の連続

自分に都合の良い考えに偏る時もある。
それでも構わない。ただ、その選択の先に訪れるものを覚悟する意志が必要になる。
心と魂が剥離しているなら、答えは出ている。
その予測がついているのなら、本当にこのままで良いかを再選択しなければならない。
そこに後悔は伴わない。朝まで遊んでも、不埒な情事に明け暮れてもいい。仕事を辞めてもいいし、続けてもいい。ただ、選択には結果がついてくる。
私は、生涯に一度の大恋愛をした時も、社会のレールを外れた時も、人を傷つけた時も、どうなるか予測はついていた。でも、私はそれらを選択した。
この人と一生いることはなく、別れた後はひどく苦しむだろうと思っても、最高の体験をした。学校に行かなければ、親はひどく悲しむだろうと知っていても、私は学校を辞めた。
底辺で生きることは、言葉にならないほど虚しくて厳しかったけれど、そこで見てきた景色や美しさは、私だけが知っていて、誰にも分からなくていい。
死にかけたりもしたけれど、巻き戻せたとしてもやはり同じ選択をする。
後悔する時はいつも、迷ったり、引き返せなかった時だ。
"自分を揶揄する自分"が現れるのは、それまでの視界の中に揶揄する人たちを見てきたからに過ぎない。
そんな自分は追い払って、ただ選択すればいい。


価値観の相違って何

価値観の合わない人と話すのはしんどい。でも、周りが価値観の合う人ばかりというのもそうそうないのではないか。家族であっても、認め合って暮らしている。価値観以上の繋がりがあれば、大抵のことは許容される。価値観の相違を理由に離れるのは、心が離れたことの建前だ。
そして、価値観が合うからという理由で一緒にいることも難しい。一定期間は良くても、互いの価値観の変化によって関係もすぐ変化する。
絆、血の繋がり、恋愛感情。
損得を抜きにした関係は作ろうと思っても簡単に作れない。互いの価値観はいつだって相違し続ける。相手を尊重すれば、その人は価値観以上のものを感じ取る。価値観はその人の本質ではない。あくまで身につけるものであり、その人の本質とは、なぜそのことに価値を見出しているかという心の奥の方にある。見た目で人を判断しないように、その人の考えや思想も"今"そうであるという前提で受け取り、自分の考えも伝えていく。矛盾を指摘されたり、否定されるのではないか、という不安はいらない。その時はなぜ変化したのかを言えばいいだけだ。素直であることは無敵であり、自他共に受け止めや許しを創造する。

ありのままの価値観で生きている人と、ただコロコロと意見が変わるだけの人の違いは、一つ一つに向き合って、選択と覚悟をしているかというだけだ。
一生懸命、真剣に生きている人、自分の基準や情熱を持っている人に、他人が批判する余地はない。価値観が合わなければうまく回らないというのなら、その社会や組織の根底に問題がある。
その考えは私にはないけれど、あなたを尊敬します。そう穏やかに言える自分でいたい。


"好き"を続ける価値

人生の何に価値を見出すか、その優先順位は人ぞれぞれでも、好きな事に関しては共通して誰もが大いに価値があると感じている。
でも、楽しいことにもそれなりの負荷がある。
大好きな事を見つけた時、これさえやっていれば大丈夫、これがあるから生きていける。
それは事柄だけではなく、人や物かもしれない。
精神的に落ち込んでいれば、対象となるものが心の拠り所になっていく。
それに救われるのはとても良いことだけれど、過剰になれば歪みが生じてしまう。
やっとみつけた居場所や、週末の楽しみ、時には運命を感じたり、そこに真実を見出す人もいる。でも、向き合い方を蔑ろにしていると、その"好き"は続かないかもしれない。
一度失ってしまうと、次の興味への妨げになったり、自己喪失や自己否定をも孕む。
好きを見つける、好きを維持するためにも、自分への問いかけと選択が不可欠だと思う。

心が踊っても、体は眠いかもしれない。
集中する時間がやっと訪れても、電話が鳴ったり、頭痛があったりする。
"好き"に触れる時間を貴重だと思えば思うほど、それに縛られているかのような感覚に陥ることもある。
私は気楽な趣味と本気の趣味があるけれど、本気の趣味については、呪いのような時期があった。恋愛と似ているかもしれない。
いつ取り組むかに意識を向けて、タイミングを図ることで適度な距離を保っている。
そのために体調にも気を使うし、あえて一定期間触れないようにもする。
人それぞれではあれど、永遠に付き合いたい"好き"ならば、本当に大切な人と同じように扱わなければならない。

"好き"の時間を、思い切りやるのか、ある程度にするのか、自分に合わせてあげることも重要で、常に120%で挑もうとするのもよろしくない。
大抵の人は時間がないから、そうなりがちになる。
必要最低限の生活と、"好き"に注ぎ込む時間や労力について、本当に自分一人でがんじがらめに努力して得なければならないのか、誰かにサポートしてもらえないか、どこかから善処してもらえないかを探ってみると、意外と得られることもある。
語り合う場面がないなら、使えるツールを駆使して募ってもいい。
私が仲間を見つけた時も、最初は一人で徘徊し、たまたま発信していたことで繋がった。
一度繋がると、望んでいた環境に一気に入り込むことになる。数週間、数ヶ月前には1ミリも予想しなかった場所にいる。

そして、なかなか思うように展開していかない試練がきて初めて、自分が追い求めていることについて振り返るようになる。
人と関わる環境であれば避けられない、趣味で繋がっていても、それとは関係のない所でのいざこざや、トラブルがある。
それらと折り合いながら集中する力を養うか、一度離れるか、選択を迫られる。
私はその居場所が崩壊し、バラバラになるまでそこにいた。
そこから一人で向き合う時間は、最初から一人でいるよりも、ずっと有意義だったと思う。
別の趣味で、不穏とは無縁のコミュニティにいたこともあるけれど、自己変化の時がくれば、やがては旅立っていく。後になってから、もっと注げばよかったと思わないように、かけがえのない時間を過ごしているんだと感謝しながら参加する事は、いつからか私の信念になった。


"好き"の見つけ方

もし、今好きな事を見つけることができないなら、今やっている事をぜんぶ止めてみてもいいかもしれない。そして時間とお金の許す限り、それまでやっていなかった事を手当たり次第やってみる。何も発見がないことはない(ハズ)。
知らない駅で降りてみる。興味のない映画を観に行く。誘われるがままついていく。つまらなければ、それは今の自分には必要ないのだと分かる。もしくは、目的のものより道中で見かけた物や言葉、出会った人から、何か見つかるかもしれない。
それが一過性のものであっても、時々振り返ることがあれば、数年先の未来で何か気づくかもしれない。私は意味のないことが嫌いだけれど、意味のない行動をする事には意味があると思っている。

"好き"を見つけることは、自分の本音を知る機会になる。
見つけた時も、失った時も、再び再開した時も、常に新しい自分がいる。
"好き"が変わっていくことも、増えていくことも、全て自分を強化していく。
決断しなければならない時、辛い局面に遭遇した時に、自分を支え、人を感化する力になる。苦しい経験を乗り越えた人ほど、言葉に宿るものがあり、説得力があるのはもちろんだけれど、まだ若くて経験そのものが少なくても、人生に悩むことは尽きない。
自分を見つける近道は、"好き"に従うこと。必ずどこかにあるそれが見つからないのは、同じ毎日を繰り返しているからかも知れない。

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