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魂が嫌だといっている


なけなしの心をかき集めて

好きに生きてさえいれば、魂はそれに従って進んでくれるように思っていた。
世界は矛盾を繰り返すのだから、私だって矛盾だらけでもいいじゃないか。
そうやって、心から楽しんで、心から笑っているつもりでいた。
それが永遠なのかは分からないけれど、確かに私は幸福だったように思う。
それは、言い出せばキリのない不満や、考えてもどうしようもない事柄を無視して、あるものに感謝し、小さな出来事に輝きを見出す作業だった。
なのに、私の笑顔は張り付いたまま、それ以上の何者にも変わっていかなかった。
私には渇望があるのだ。
忘れようとしても、マグマのように突き上げて冷めることのない圧倒的な渇望がある。
それは、私の表面が笑顔だろうと、顰めっ面だろうと、全く関係のない事象だ。
私の中に渦巻く事象。
仏のような心になれば、誰だって幸福に決まっているじゃないか。
私は今噛み締めているような幸福者になりたいんじゃない。
私が吸血鬼なら血を欲するべきだし、私が破壊神ならひたすら破壊するしかない。
それが道理に反するかしないかは、別の話であり、それは世界に当てはめて判断するものではなく、あくまで私個人に選択が課されている。
私は自分が何者であるか知っている。

幸いにも、私は他者を傷つけたくないという人間だ。
そういった衝動に駆られることもない。
困っている人や落ち込んでいる人を助けたいという衝動はよく起こる。
どちらもエゴであることに変わりはないが、私はこれまで行ってきた人助けの中で、よく憶えているものがある。
あまりにも印象が強かったことや、もっとああすればよかった、という反省が残るものがそうだ。状況が特殊だったならその分析をし、反省が残れば次に同じことが起きた時どうあるべきかを考える。
私は、生きることを息苦しく感じる時間が長かったせいで、似たような人を見ると苦しみが蘇ってしまう。
だから、それを反射的に打ち消そうとする。想像を働かせて、実は苦しいんじゃないか、という心配もしてしまう。
時に、それが常軌を逸して、恐怖に包まれて何も手につかなくなってしまう事もある。
心の底からどうでもいいと思うような人であっても、弱っていると心底助けたくなる。
何もできない時は、辛くて目を逸らしてしまう。
それでいて、私にもちゃんと、人の不幸が蜜の味に感じる時があるのは、人並みの心理を備えているからだろうか。いつもの自分と無理にこじつけて考えるなら、苦しみの数が飽和すれば、何かが崩壊して、全て消え去ってくれるような期待があるのかも知れない。

私は長らく、自分を愛のある人間だと勘違いしてしまっていた。助けたいという衝動は、過去の不安からくる条件反射に過ぎないのだ。私は自分という人間を俯瞰で評価して、まるで道徳的な素質の高い者のように捉えていた。
私という人間は、不安がなくなりさえすれば、いとも簡単に他人への興味など失せてしまうだろう。
そして、他人へ関心のない人を見て嫌悪するのは、私の中にも同じものがあるからだ。

私は自己を改めるべきか。
うまく生きれないくせに、それっぽく生きてみせる術を身につけてしまった。
どう生きたいかなんて、大それたものなどない。
生きている風の自分を染み込ませても、自分を騙せるのは真の自分の手前までだ。
あれも嫌だ、これもNOだと突きつけていたのは、世間に対してだけだ。
私は綺麗事など大嫌いな、泥の底から生まれた存在だ。
泥だから、上澄みの人間のする、弱さゆえの過ちなど慰める気もしないのだ。
世界がつまらないのには理由がある。
その根源の底に私の渇望はある。

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