NIKKOアートと金谷ホテル
7月11日のJapan Timesに日光金谷ホテルの紹介記事“Epitome of Meiji Era Art”(明治時代の芸術の縮図)が掲載されました。"ART"カテゴリーでの掲載は、これまでにないことです。1873年(明治6)創業の金谷ホテルが、1893年(明治26)に現在の場所に移って以降の和洋折衷の建築や客室装飾は今も数多く残っていますが、それらは明治時代以降、日光が国際観光都市となる過程で産業として育てられたもの、そしてそれには金谷ホテル創業者である金谷善一郎が関係していた、ということを紹介した、おそらく初めての記事だと思います。
ここからは、壬生町立歴史民俗資料館様の2013年の展覧会「壬生のサムライと日光の至宝」の図録からの情報ですが、下野壬生出身の実業家・守田平蔵が1894年(明治27)日光に美術品陳列場「鐘美館」を開館したことからそれは始まりました。各地から堆朱、陶芸の職人を集め、さらに地元出身の五百城文哉、小杉未醒(放庵)(いずれも洋画)、上野桐恵(堆朱)も参加し、「NIKKO」ブランドの芸術を立ち上げる活動が行われました。その後鐘美館は田母沢御用邸の儀仗兵の宿舎となったため場所を移し、今の御幸町のあたりに1908年(明治41)にネオバロック様式の壮麗な「日光美術館」を設立。
金谷善一郎(私の高祖父)はその館長を務めていた、ということを、この記事の取材を通して壬生町立歴史民族資料館様から初めて教えていただきました。曽祖父・金谷眞一の記録にも、日光彫の輸出に関する記述が多くあり、もともと地元にあった名産品を商品として扱っていたと思っていたのですが、実は、その製作・振興に金谷ホテルが深く関わっていたとは知りませんでした。そういう視点でホテル内を見てみると、確かに木彫の宝庫なのですよね。上記ネット記事掲載作品以外でいくつかご紹介しましょう。
日光の木彫は、東照宮を製作・維持・修理するための全国から集められた職人たち(左甚五郎もそのひとりと言われています)により製作されました。そうした人たちが日光や周辺に定着して製作した木彫作品は、今もお祭りの山車などにもみることができるそうです。金谷ホテルの木彫には、製作した職人の名前がわかっているものもあります。日光彫のテーブルは、足を取り外せるようにして運びやすくするなど、外国人向け土産物としての工夫もされていました。今も海外に残っているものがあったら、素敵です。
日光金谷ホテルにお越しの際には、日光の町、日光の人々の営みの歴史を今に伝える木彫作品にも是非ご注目ください。客室の家具などにもたくさん残っています。
参考文献:「壬生のサムライと日光の至宝ー“NIKKO”ブランドの開拓者ー」壬生町立歴史民族資料館 2013年