旅人のヒマゴ

1925年(大正14)、私の曽祖父は単身世界旅行に出かけ、7ヶ月間の毎日を記した3冊の…

旅人のヒマゴ

1925年(大正14)、私の曽祖父は単身世界旅行に出かけ、7ヶ月間の毎日を記した3冊のノートを残しました。日光金谷ホテルの二代目社長・金谷眞一の100年前の一人旅、ご一緒に紐解いて参りましょう。 X:#100年前の世界旅行 Instagram: shinkanaya1925

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私の、旅行記

70歳を過ぎて家業から引退した父は、先祖の残した大正から昭和時代の記録の整理にいっとき熱中していました。ダンボール箱に詰まった数十年分の日めくりを読み返して、時にはパソコンに向かいポチポチと書き起こす。セーブし忘れて頭を抱え、こんな時には気分転換だ、といそいそと缶ビールを開けていたのも懐かしい。 その中にA4より少し小さい黒い表紙のノートが3冊ありました。父の祖父、つまり私の曽祖父の世界旅行の日記です。 大正14年、1925年に1人で半年も各国を旅したのだ、英語で日記を書

    • あるホテリエの終戦の日〜上海その後

      8月に書いた「あるホテリエの終戦の日」↓は、私の祖父でのちに日光金谷ホテルの3代目社長となった金谷正夫が、上海で終戦を迎え、英国人婦人が貸してくれた車で日本人租界へ脱出するまでを書きました。祖父が昭和35年に出版した著書「わがこころのホテル」には、その後の様子も描かれています。 日本人街での暮らし 当時上海に居住していた日本人は約5万人。上海共同租界北部のいわゆる「日本人街」に多く暮らしていました。祖父が日本軍の要請で支配人を務めていた外灘(バンド)のパレスホテル(190

      • 1923年9月1日の記録

        101年前のこの日、私の曽祖父、日光金谷ホテル2代目社長・金谷真一は日めくりカレンダーに「正午強震あり。東京方面の被害甚大なる模様なり。電信電話ことごとく不通。」と記しました。以下は栃木県日光市にいた曽祖父の関東大震災記です。 この年は、眞一にとってなかなか厳しい年でした。1月に父・善一郎(金谷ホテル創業者)が亡くなったのは、妻を体調不良のため東京の病院に入院させた翌々日のことです。ほぼ毎月、9月にライト館の開業を控えた帝国ホテルの役員として上京し役員会に出席、日光でも本業

        • あるホテリエの終戦の日

          私の祖父、のちに日光金谷ホテル3代目社長となった金谷正夫は、軍の要請により、昭和17年(1942)から日本占領下の上海バンド地区にあるパレスホテルの管理のため上海に赴任していました。この頃、日本の多くのホテルが同様に中国や南方のホテルの運営を委託され、大勢の人を日本から送り、 従来の経営陣を追い出す体制をとった例もありました。帝国ホテルはバンコクへ、軽井沢万平ホテルはジャワ島へ、シンガポールのラッフルズホテルは「昭南旅館」となりました。各ホテルは大東亜共栄圏への事業拡大の好機

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        私の、旅行記

          NIKKOアートと金谷ホテル

          7月11日のJapan Timesに日光金谷ホテルの紹介記事“Epitome of Meiji Era Art”(明治時代の芸術の縮図)が掲載されました。"ART"カテゴリーでの掲載は、これまでにないことです。1873年(明治6)創業の金谷ホテルが、1893年(明治26)に現在の場所に移って以降の和洋折衷の建築や客室装飾は今も数多く残っていますが、それらは明治時代以降、日光が国際観光都市となる過程で産業として育てられたもの、そしてそれには金谷ホテル創業者である金谷善一郎が関係

          NIKKOアートと金谷ホテル

          英国最高勲章と日光金谷ホテル

          訪英中の天皇陛下に英国王室から英国最高勲章であるガーター勲章が贈られた、というニュースをみて色めきたったワタクシ。というのも、1906年(明治39)明治天皇にこのガーター勲章を奉呈するために来日した、ヴィクトリア女王の3男・アーサー王子(コノート公)が日光で滞在したのが日光金谷ホテルだった、というご縁があるからです。1873年の創業以来、おそらく初めてのウルトラVIPを迎えることになったホテルの晴れがましい様子を、曽祖父の晩年の著書から引用してみましょう。 ガーター勲章は、

          英国最高勲章と日光金谷ホテル

          (ほぼ)100年前の世界旅行 上海〜神戸〜日光1925/12/19〜25(完)

          1925年6月1日に横浜を出港してから7ヶ月、曽祖父・金谷眞一は12月19日に上海を出航し、一路神戸へ向かいます。 さすがに不調 ここまで1人でアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、インドを一人旅してきた46歳の眞一、途中胃腸の不調や風邪もなんとか乗り越えてきました。でも最後の航海でついにダウン。日本到着を目前に、旅の疲れがどっと出たのか、船内で39度の発熱です。船医の診察を受けて寝込んでいる中、ボーイにルームサービスを頼みますがこれがなかなかうまくいきません。スプーンを頼ん

          (ほぼ)100年前の世界旅行 上海〜神戸〜日光1925/12/19〜25(完)

          (ほぼ)100年前の世界旅行 香港〜上海1925/12/9〜19

          曽祖父・金谷眞一の7ヶ月に及ぶ世界ひとり旅も、いよいよ最後の訪問地です。 夏はもちろん、冬も大活躍 12月8日にサイゴンを出発。船はセイロンから乗っているフランス船アンボワーズ号です。南シナ海は荒れたようですが、眞一は「船酔いしない体質」で甲板をゆっくり歩くのが良い運動だ、と書いています。しかしサイゴンで蚊が船室に紛れ込んで安眠できません。そこへ船友のフランス人ベカート氏がくれたのが、なんと日本の蚊取り線香。調べてみると蚊取り線香は1890年(明治23)に除虫菊の防虫効果

          (ほぼ)100年前の世界旅行 香港〜上海1925/12/9〜19

          (ほぼ)100年前の世界旅行 シンガポール〜サイゴン1925/11/27〜12/8

          曽祖父・金谷眞一の世界旅行は日本帰国途中。セイロンを出発し、ここから約2週間、東南アジアの港に停泊しつつ進む船旅の毎日です。 インド洋へ 11月27日、トーマスクック コロンボ支店のスミス支店長に別れを告げ、一人ぼっちの出発です。まず荷物とともに小舟に乗り、フランス船アンボワーズ号に乗船しました。 この旅行中おそらく初めて乗るフランス船ですが、一等船室でも3人相部屋で、それぞれの荷物を運び入れると身動きもできず「旅行中一番の失望」、「動物園」と日記に記しました。でもこの

          (ほぼ)100年前の世界旅行 シンガポール〜サイゴン1925/11/27〜12/8

          (ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(2) ヌーワラ・エリア〜再びコロンボ 1925/11/24〜26

          世界旅行も終盤、現在のスリランカの高原リゾート、ヌーワラ・エリアに滞在中の曽祖父・金谷眞一が出会ったのは、世界を渡り歩いた農業のプロ。驚きの旅は続きます。 こんなところに日本人 ヌーワラ・エリア滞在二日目、前日夕方からの豪雨の隙を見て、人力車で前日列車から見た茶畑の中の道を見物に出かけました。すると車夫が、ここから五里ほどの山奥に日本人の農場があるのを知っているかと話しかけます。 これ、親切そうなガイドに「こっち安全」とか言われてついていくと….というアレですよね。 眞

          (ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(2) ヌーワラ・エリア〜再びコロンボ 1925/11/24〜26

          (ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(1) コロンボ〜キャンディ、ヌーワラ・エリア 1925/11/21〜23

          エジプト・ポートサイードを出発し、英国船Dumana号で紅海、インド洋の2週間の航海を経て、曽祖父・金谷眞一は英領セイロンのコロンボに無事到着しました。 コロンボ上陸 11月21日、早朝から荷下ろしが始まりました。乗客の多くはマドラスやカルカッタに向かい、コロンボで降りる乗客は少なかったようです。当時のコロンボは英国植民地であるセイロンの主要港です。「15日間同じ釜のパンを食べた船友60余名に別れを告げ」、大きな荷物はトーマスクックの人足に持って行かせ、自分は英国で買った

          (ほぼ)100年前の世界旅行 セイロン(1) コロンボ〜キャンディ、ヌーワラ・エリア 1925/11/21〜23

          (ほぼ)100年前の世界旅行 スエズ運河からコロンボへ(ポートサイード〜コロンボ)1925/11/6〜21

          エジプト・ポートサイードから英国船Dumana号に乗り込んだ曽祖父・金谷眞一。英国人乗客がほとんどで「唯一のアジア人乗客」と日記に書いています。今回はスエズ運河〜紅海〜インド洋〜セイロン(今のスリランカ)までの船旅の様子をご紹介します。 船のこと この世界旅行が始まった横浜〜サンフランシスコの太平洋航路(16日間)以来、久々の2週間の長い船旅です。陽気で盛りだくさんの太平洋航路については以下の記事をご覧ください Dumana号は1921年就航のブリティッシュ・インディア

          (ほぼ)100年前の世界旅行 スエズ運河からコロンボへ(ポートサイード〜コロンボ)1925/11/6〜21

          (ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(再びカイロ〜ポートサイード)1925/10/30-11/6

          1925年、初めてエジプトを訪れた曽祖父・金谷眞一。カイロからナイル川沿いを汽車でルクソールへ行き、数多くの遺跡で悠久の歴史を満喫したのち、ルクソールからカイロへ戻ります。 アビドス神殿 ルクソールからカイロへ向かう途中、汽車で4時間ほどカイロ寄りのバリアナという停車場で下車。汽車は砂埃がひどく座っていられなかったようですが、車窓から見たナイル川に鶴のような水鳥が遊び、人々が漁や農作業をする様子をもの珍しく眺めました。 停車場に出迎えた二頭立ての馬車で1時間ほど行くと、

          (ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(再びカイロ〜ポートサイード)1925/10/30-11/6

          (ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(カイロ〜ルクソール)1925/10/23-30

          曽祖父・金谷眞一の世界旅行、1925年6月に横浜を出発し、アメリカ、ヨーロッパと進み、いよいよ欧州を出てアフリカ大陸へ。約2週間のエジプト編、今回は前半です。 世界一高い船の旅 南イタリアで旅の友となったマーシュ夫妻、エヴェレスト姉妹らを見送り、10月23日、1人でナポリを出発。夜の汽車でブリンディジへ向かいます。夜中に寝台車に乗り換えて、翌日午前11時にブリンディジに到着。トーマスクックの社員が出迎え、そのまま汽車から降りないように教えてくれました。汽車は桟橋に付き、そ

          (ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(カイロ〜ルクソール)1925/10/23-30

          師走ってほんとに早い…。1925年の曽祖父の世界旅行、いよいよヨーロッパからエジプトに行くというところで、資料を読んで整理する作業が進まず、書けておりません。ですが、エジプトでもすごい日本人との出会いがあります。どうぞお楽しみに。

          師走ってほんとに早い…。1925年の曽祖父の世界旅行、いよいよヨーロッパからエジプトに行くというところで、資料を読んで整理する作業が進まず、書けておりません。ですが、エジプトでもすごい日本人との出会いがあります。どうぞお楽しみに。

          (ほぼ)100年前の世界旅行 ナポリ(カプリ〜アマルフィ〜ソレント〜ポンペイ)1925/10/17-22

          永遠の都・ローマに深い感銘を受けた曽祖父・金谷眞一。列車でスリにあい、一文無しで到着したローマ駅から今度はナポリへ出発です。 ちなみに現金は盗まれましたが旅券などは無事だったので、トーマスクックでトラベラーズチェックを換金し、旅は続きます。 ローマ〜ナポリ 1925年10月17日、ローマからナポリに行く列車で出発。途中から、以前フィレンツェで一緒のツアーだった英国人の老婦人や米国人の姉妹とも乗り合わせます。ローマで、この英国夫人が敗血症で足の手術を受けたと聞いていましたが

          (ほぼ)100年前の世界旅行 ナポリ(カプリ〜アマルフィ〜ソレント〜ポンペイ)1925/10/17-22