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(ほぼ)100年前の世界旅行 マルセイユ〜ニース〜ジェノバ 9/22-30
金谷眞一、この旅行中2回目のパリ滞在の後は、南仏のリゾートを視察し、さらにイタリアへ向かいます。
マルセイユ
パリから13時間の汽車の旅で、港町、マルセイユに到着。ここで驚くのは「7月のニューヨーク以来ずっと冬服だったが、ここは暑い。」と日記に書いていること。今では考えられないですね。マルセイユでは一泊し、ノートルダムラガルド教会などを見物していますが、そのほかに見るものがあまりなかったようで、急遽リビエラ見学を思い立ち、午前中にマルセイユを出発しました。
ニース
5時間の汽車旅ののち、ニースに到着。早速Hotel Negrescoに部屋をえて、かなり満足の様子です。トーマスクックの事務所を訪ねてサンレモ日帰り旅行もアレンジしました。ニースは「Atlantic Cityに似ている。逗子、鎌倉にも。」と日記に書いています。海沿いの遊歩道をmillionaireの気分で歩いた、とも。
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Hotel Negrescoは1913年創業で現存しています。ニースのホテルの多くは避寒客の多いシーズンだけ影響するようで、眞一の滞在時は営業準備中も多かったようですが、ここは通年営業でした。世界のセレブを顧客に持ち、様々な時代の美術品で飾られた贅を尽くしたこのホテルですが、創業者Negresco氏は第一次世界大戦による客の激減に持ち堪えられず、債権者に差し押さえられたのちベルギー企業に売却されていました。家族経営の雰囲気ではなかったようですが、快適な滞在だった様子が日記から伺えます。
日帰り旅行
ニースを拠点に、北のサンレモやモンテカルロ、南のカンヌ、西のグラース、「フランスで最も美しい村ベスト3」に入るグルドンなど、毎日日帰りのツアーに参加しています。
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香水の産地グラースでは、香水製造のアンリ・ムラオー社を見学した際、20年ほど前に横浜オリエンタルパレスホテルにいたムラオー氏の一族だろうと思い出し、ニースに住んでいる彼に連絡をとり自宅を訪問しました。
横浜 オリエンタル・パレス・ホテル
開国後横浜や神戸にはまず外国人によるホテルが多く造られました。「日本ホテル略史」によれば、金谷ホテルの前身「金谷カッテイジ・イン」が創業した1873年(明治6)に、横浜に「佛國人ボンナ、料理長ムラオー(L. MURAOUR)をパートナーとしてグランド・ホテルを開業す」という記述があります。その後1902年(明治35)「佛人ムラオー、ドゥエットと横浜海岸通11番」に「オリエンタル・パレス・ホテル」を開業した、とあります。おそらくこれが、ムラオー家が経営したホテルでしょう。創業者レオン氏が料理人出身だったこともあり、「格はグランド、料理はオリエンタルパレス」と言われていたようです。
オリエンタル・パレス・ホテルの当時の様子がよくわかる、絵葉書のサイトを見つけました。立派な、美しいホテルです。
1909年(明治42)に横浜グランドホテル ホール社長の呼びかけで「日本ホテル組合」が作られた際の会合出席者に「オリエンタル・パラス(原文ママ)・ホテル ゼー・ミュラオー」の名前がありました。眞一が知っていたのはこのミュラオー氏(ファーストネームはジャン、レオン氏の甥との情報あり)と考えるのが、年齢的にも合っているようです。急に連絡した眞一を快く自宅に迎えてくれ、夕食を共にし、食後はレコードを聞いて過ごしました。
横浜市のホームページには、2年前の関東大震災で失われたオリエンタル・パレス・ホテルの画像が載っています。あの美しいホテルが跡形もないのは衝撃です。その土地を、まだパートナーと共同所有しているというジャン氏に、機会があれば早く売った方が良いと勧めたり、眞一はかなり親しい間柄だったように思われます。別れたのち「もう会うことはないと思うと感慨深い」と日記に記しました。
体調の不安
パリ以来1ヶ月近く、実は眞一は胃の不調に苦しんでいました。日本から持参した処方箋で薬を手に入れたものの、かえって悪化し下痢と腹部の膨張でよく眠れなくなり、一人旅の不安から「余命が短いのかも」「帰国できないかも」と「気も狂せるほどに混乱し」「もしや窓より無意識に飛び降りるようになるのでは」と不安を書き綴っています。ムラオー氏から「卵を食べないで、8時間眠ること」とアドバイスを受け「もう寝る」と書いたのは良い兆候です。
なにしろ、毎日移動に観光、その上何ページも日記を書いていれば、体調も崩すだろうに、と思うのです。そのおかげでこうして100年前の旅行を振り返ることができるのですが、たまにはゆっくり休んでほしいものです。
ジェノバへ
ムラオー氏のアドバイスのおかげか元気を取り戻し、イタリア・ジェノバへ出発。到着後トーマスクックでイタリアン・リビエラ観光を勧められ、オランダ人、フランス人らと共にポルトフィノの半島を横切ってラパッロへ。日光浴客で賑わっています。昼食はグランドホテルです。
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絵葉書を買った際、ミシンを使っている女性に、靴下どめのゴムを縫ってもらいました。お礼を払おうとすると受け取らず、「これを使う時にはイタリアの娘のことを思い出してほしい」なーんて言われています。サンレモでも、帽子が風に飛ばされた時拾ってくれた青年がとても感じよかったことと合わせ、旅の良い思い出となりました。
滞在したSavoia Majestic Hotelは1897年創業で、現在のGrand Hotel Savoiaとして残っています。
次はイタリア湖水地方のリゾート、コモ湖に向かいます。