歳をとるほどに。
健康寿命 とは自分で決めていい。そう思う。
身体の健康も心の健康も、世の中の言う、医学的に定義もあるのだろうがこだわらなくていいのだ。
自分の身体や心と対峙しておかしいなぁと思う事を見過ごさないで健やかでありたい。それでも残業を断れない時もあるけどね…。
情報に溢れてる今に振り回されるのを止めてみようと思うけど、人の目や評価が追いかけ回してくるわけだ…。
どんな時も未来にどう生きたいかは決められる。とはいうものの明日急に休めないし…。
自分で想像していろいろな選択肢を考える。
これは出来そうだ。
考えられるうちは健康だなぁと感じる。
とは言うものの、必死に働いて、風邪を引いたら葛根湯やら風邪薬やらリポDを摂取して休まないように必死に頑張るんだ!!
いやいや、
お金で健康は買えない。
必死に働く前に必死に自分の身体や心を守りましょう。
極論、身体を壊して仕事を休んで、申し訳なくなりすぐに復帰したくなるのは本人。穴は埋まるのだ…。もちろん全てではないし、排除されたくない、居場所が…やりがいが…いろんな感情があってほしい。
周りは人が足りないと良くない発言をする人もいるかもしれない、だからと言って無理しなくていい。
何を簡単にそんなこと言うのだ!?むりしなくていいなんて安易なことみんながみんなできるわけないだろ!!
お怒りの言葉が聞こえる。休む事は迷惑をかける。申し訳なく思う。そうだと思う、だけど悪ではない。
大人の社会で少しづつそう思考が変わればいいなぁと思う。子どもたちも学校を休むことをズル休みと言われたり、行けないことが続くと、ダメな人間扱いをされたり…。悲しい。
悲しい現実を作り出したのは昨日、今日ではない。
長い年月をかけて何世代にもわたってそうした文化が人を苦しめてる気がする。
人と交わる事は生きることの一つ。全てを避けて生きられるのだろうか?理解しようとしたりされたり、意見がぶつかるつもりがないのにぶつかったり、理不尽な事も度々起きる。悔しくなる。
一番辛いのはなんだろう…。
人ととして扱われないことかな。透明人間のように扱われることかな。
そんな扱い…悔しく思う。
頑張ってきたのは何だろう…とふと気がついてしまう。やれる事はあるはず、自分なんかでも貢献できることがあるはず…。そう鼓舞して頑張って…。
それでも理不尽な事が起こる。
誰もその痛みを、本人の痛みを見て見ぬ振りするんだ。
だから自分の事は自分で守るんだ。雑に、ぞんざいに扱わないで、呼吸してる事をしっかり感じて生きよう。悲しいけれど大人になっても「みんな仲良く」なんて、未来は存在しない架空の物のような気がする。
時には誰かを頼り、自分の身体や心を優先していいのだ。
満員電車を降りていいのだ。毎日がむしゃらになってたら心臓がもたない。機械のように変えられない大切な身体。
笑って合わせたふりをしなくていいのだ。省かれないようにしてたら心がもたない。シワのない白紙に戻らない大切な心。
休んだり、迷惑をかけたなぁと思ったら謝罪の言葉を相手にかける。それができたら人として大丈夫な気がする。謝罪や感謝を伝えず人を非難ばかりする人より、悩みながらでも生きようと、淡々とでも生きようとしたら、もうはなまるだと思う。非難ばかりする人はまた非難するのだ。
非難を繰り返し、いらだち、感情的になって人生の時間を無駄遣いしてる。
健康ではない気がする。比べるわけじゃないけど自分の身の丈に合った歩幅を忘れないように時々立ち止まりたい。無理は続かない。
無理をして命を削るほど生きてる時間はないかもしれない。
明日の健康を守るために身体と心を休める準備を丁寧にしたいものだ。