嫁が君
━京の都から南へ一里ほど下った山里に石峰寺という黄檗宗の寺がある。
京に近いだけあって、山里とはいえ雅さが漂っている、その風情が気にいったのか、このころ伊藤若冲は門前の庵に隠棲していた。
“鶏も書き尽くした ”と若冲は思案気の様子。
“絵は心を解き放つのが何より 正月でもあるし、ちょっとおどけてみようか フフッ ”
何やら面白い考えが浮かんだようだ、いそいそと準備に取り掛かる若冲。
━静岡市美術館はざわついていた。
「琳派と若冲、ときめきの日本美術」と銘打った京都・細見美術館展は盛況だ。
人気の琳派や若冲の作品が多数展示されている、その絵の前には人の渦が幾重にもできていた。
ヨシコとクニオは、その渦から少々離れた場所にある若冲作「鼠婚礼図」の前で話し込んでいる。
“モチーフが面白いわね 鼠って”
なるほど若冲といえば鶏が馴染み深い、実際、今回の美術展でも「鶏図押絵貼屏風」や「雪中雄鶏図」など鶏をモチーフとした作品は、どれも写実的ではあるが不思議な気品に満ちて見ごたえたっぷりだ。
“それも婚礼図だぜ!”とおどけて見せるクニオ。
まさに「嫁が君」を彷彿させてしまう。
松尾芭蕉の俳句にこんな句がある。
「餅花や かざしに插せる 嫁が君」
“正月三が日の平和な一時を描いたのかな?“
三方を運ぶ鼠、裃姿の鼠は媒酌人だろうか …… ご相伴に預かろうとしているのか、慌ててやってくる鼠とすでに酔っているのか引きずられながらも嬉しそうな鼠、大黒柱?に絡みつく鼠 …… などなど宴会の真っ最中だ。
“鼠の表情が愛らしいわね フフフッ ”ヨシコも微笑む。
江戸時代も中期以降になると庶民的な美術が興隆し始める、絵師の階層も大きく広がり、遊び心あふれる作品も多くみられるなど百花繚乱の状況を呈していた。
京都画壇も隆盛を極めていた、その中心をなす絵師が若冲、応挙、蕪村、大雅、蕭白らであった。
“路で会えば「おはようさん」とか「ほなさいなら」とか挨拶をしていたのだろうか”
ちょっとほっこりする。
“この作品は若冲の意外な一面を物語っているよね”とヨシコ。
若冲といえば生涯を妻帯せず絵に打ち込んだことはよく知られている、相国寺や黄檗宗の僧侶と深い交流があり、寺院に寄贈した作品も多く、信仰の熱い絵師とするイメージの面からすると「鼠婚礼図」は少々意外だ。
鼠は害獣ではあるが大黒様のお使いであることが知られているし、辻氏が指摘するように「このころ京都は、江戸と比べ自由な雰囲気に満ちていて、これまでの約束事に縛られない自由な発想と表現が可能だった 」という事情が若冲をして遊び心のある絵を描かせた理由かもしれない。
“でも何より秀逸なのはこの構図だでよ! 鼠・鼠 斜め線 余白 鼠 って”
ヨシコは構図の奇抜さ面白さに気付く。
左上と右下という斜めの構成も面白い。
“余白を真ん中にして、両端にモチーフを置くって構図の作品は結構あるんじゃないかな?”
等伯の「松林図屏風」や蕪村の「紫陽花にホトトギス」とか宗達の「風神雷神図屏風」とか、どれも傑作だ。
“イヤイヤ それらの作品の余白は大気や湿気なのに、若冲の余白は違うよね!”
“きっと床だと思うんだ!板の間か土間かわからないけど”
“この余白は磁場じゃない? 余白はご相伴にあずかろうとする鼠を引っ張ろうとする磁場の引力を感じるんだけど”
二人はは何か言いたげ …… だけど …… 沈黙という磁場が二人を覆っている。
しばらくの沈黙の後、しびれを切らしたかのようにクニオが
“なるほどね 確かに框のような斜め線から迎え出ようとして飛び出している鼠がそれを暗示しているのかもしれないね”
“そうよ 線と余白が得全体に活き活きとした動きや躍動感を生み出しているのよ”
とつぶやくヨシコ。
余白は「想像力の働きで完成させる」とは岡倉天心の洞察。
“ウーん 想像力で埋めるしかないね!”と得心したかのように互いに頷く。
想像は心の内に幾重にも果てしなく広がっていることを二人は感じていた。
━石峰門 前の庵
今日も里の子供たちの歓声が響き渡っている。
オイラもワタシもと子供たちが鼠の絵の廻りに集まってきた。
“墨をすってみるかい ”
と硯と墨を取り出す若冲の顔は滋味に満ちている。
子供たちのみならず、動植物にも慈愛をそそぐ若冲
“山 川 草 木 悉 皆 成 仏 山 川 草 木 悉 皆 成 仏 ”
そこには穏やかな山里が広がっている。