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 「ほとばしる気骨」         重源上人坐像の作者は運慶か快慶か

「バリバリ バリバリ」と火の粉が舞う  紅蓮の炎に包まれ「ぐわーん、ぐわーん」と悲鳴を上げる東大寺の大伽藍、炎は容赦なく大仏殿をも飲み込んでいく。
平氏の兵たちは、手当たり次第に松明を堂に投げ入れている、恐れおののく僧侶たち、西風に煽られた炎は、すでに誰もが手を付けられない。
「アー お堂が お堂が 」僧侶たちの悲鳴が闇夜を切り裂く、その阿鼻叫喚の光景はまるで地獄絵そのものであった。
 
 治承四年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちによって東大寺大仏殿は数日にわたって燃え続け、天平創建の大仏(廬舎那仏像)もほとんどが熔け落ちた。
 
 
それからしばらくして
後白河上皇から東大寺復興の名を受け、造東大寺長官を任ぜられた藤原行隆は、南都に赴いた。
大火の後も生々しい惨状を目のあたりにして、一行はただただ呆然と佇むばかりであった。
 
そんな焼け跡で、精力的に動き回る僧侶に目が留まる。
“あの御坊は …… ” どのようなお方なのか
行隆は興味を覚えていた。
 後日、その僧侶の名を知ることになるが、今は知る由もなく、途方に暮れれるばかりであった。
 
 
━養和元年(1181年)八月 醍醐寺
「勅  朕 忝(かたじけな)くも幼齢をもって聖緒につく…中略…布告す」
藤原行隆は東大寺勧進任命の奉書を声高々と読み上げる。この宣旨を受けられた御坊は誰あろう俊乗坊重源と言い、焼け跡にて精力的に動きまわっていたあの僧である。
 “あの時の御坊か……  ”と不思議な縁(えにし)に行隆は驚くばかりであった。 
 
俊乗坊重源は、三度も宋に渡り最新の知識と技術を持ち帰り、それを活かした造寺に関しては経験が豊富(*1)があるなど、勧進の大役を果たす力量と器量を十二分に備えていた。
時に重源は齢61歳であった。
 
 
“勧進の宣旨って、破格の抜擢じゃないの?”
宣旨を受けた重源の覚悟と、後白河上皇の決断のほどを推量しながらヨシコは驚く。
 
確かにね、でも当時、念仏宗の普及に多大の功績があったようだし、何より法然上人の強力な推薦ってのも大きかったかもね”
 日々の布教における重源の人となりをよく知っていたからこその法然の推薦だったのだろうとクニオは推測する。

 宗派などにこだわることなく。不自由に苦しんでいるところには、惜しげもなく援助の手を差し伸べている。これは、ちょっと考えると何でもないことのようであるが、実はなかなか大変なことで、そこには重源のまことに度量の広い性格が良く示されているといえよう。                  

俊乗坊重源の研究 小林剛 有隣堂 

“民衆の信頼が厚かったのね”
 
“そうなんだよ、重源は自らを南無阿弥陀仏と称していたんだって  それで  彼の廻りには多種多様な人々(同行衆)が互いに精神的な連帯をもって集まっていたようだよ”
 

『 これらの同行衆は、念仏衆、維那(いな)(*2)、番匠などの建築関係者、仏師、鋳物師、僧侶など多彩であった。
これらの人々は、造寺、造仏、写経その他の作善業にあたり、それぞれの分担に応じて、募金に奔走し、技術を提供し、労力奉仕をし、或いは物資運搬のために道路・橋・港湾などの整備にまで関係した。
 重源が提唱した阿弥陀信仰による宗教的結合が、いかに役立っていたかは容易に想像される。               

佛教芸術105号 毛利 久 仏教芸術学会

“行基菩薩(*3)を彷彿とさせるわね”
行基菩薩は東大寺の創建の際に多大な尽力を果たした僧として知られている。
“そうだね   ”とうなずくクニオ
 
 
━養和二年(1182年)5月 醍醐寺
 
 藤原行隆と重源は、康慶と同道した長男の運慶らと何やら話し込んでいる。
 
……御上人、お話はよく分かりました。  その大役 運慶ならば立派に果たすことでございましょう”  康慶は後ろに控える不敵な面構えの運慶に目をやる……
 
“この御仁なら”と重源の直感がささやく “運慶殿やってくださるか?”
 
運慶は静かにうなずく、目には力がほとばしっている。
 
その運慶の姿に、藤原行隆も重源も“これは良い大仏修造ができそうだ”と安堵にほぐれ、一座に自然と笑みがこぼれた。
 
 それからというもの、勧進僧重源の並外れた働きにより、驚くことに一年を待たずして大仏修造に必要な財貨が集まったのである。 

文治元年(1185)八月 大仏開眼供養(重源65歳)
建久元年(1190)十月 東大寺大仏殿上棟(重源70歳)
建久五月(1195)三月 東大寺落慶供養(重源75歳)
建久六年(1195)三月 重源大和尚となる(重源75歳)
建仁三年(1203)七月 東大寺南大門金剛力士像をつくる。
 運慶が阿吽両像の統一を図りつつ、快慶、定覚、湛慶と共に完成させる。
建仁三年(1203)十一月 東大寺総供養(重源83歳)
建永元年(1203)六月 重源入滅(重源86歳)

━ 東京国立博物館 2017年  重源上人坐像を囲んで。
 

重源上人坐像 


重源上人坐像


“いやー 重源さんの実行力は大したもんだわ!”
誰もがこの偉業を見聞きすれば、重源に畏敬の念を抱かざるを得ないだろう、ヨシコもその一人だ。
 
“広範囲な人的ネットワークがあったればこその偉業だね“
阿弥陀信仰による宗教的な結束があったにせよ、重源のまとめ上げる力量には、二人もあきれるばかり。
 
“欲が消えた澄んだお顔をしてるわね!!”と重源に話しかけるヨシコ。
「へ」の字の口元に意思の強さが見て取れる。
 
クニオは重源のほとばしる気骨を感じ取っていた。
“強い意思か だけど、人を威圧するのではなく、思慮深い優しさのある……人情の機微にも通じていたと思わない?”
 
“人情の機微ね  確かに、それも極上の  人の心根をとろけさせるような ね! ”
  
二人は押し黙ったまま坐像を見つめる。
 
作者は誰なんだろう?”と誰もが口にする思いをヨシコがつぶやく。

 重源上人坐像は、重源の人となりを思い起こさせる肖像彫刻の傑作である。
薄い灰色の衣に袈裟を掛けて、数珠をまさぐり、背を丸めて座す。眼は落ちくぼみ、頬はこけ、皺が深く刻まれた様は、老いた僧侶を克明に映し出している、口元を「へ」の字に表すのも、強い意思をもっていた重源その人をしのばせ、重源に日常的に親炙した人がその姿を的確に捉えたものと言える。 …中略… 
本像の作者としては、これまで重源に帰依して重源周辺の造像に深くかかわってきた快慶と、運慶あるいは慶派一門の直系筋があげられている。                    

重源上人坐像作品解説  興福寺中金堂再建記念特別展 運慶

 
“日常的に重源に親炙した人が作者であるとするならば    ”
“誰なのよ!”
“快慶かな”
とクニオ。
 
一方、その顔の強い表現、衣摺の彫りだし法などから、迫真の描写から運慶作とする説もあるなど、作者の特定はできていない。
 
“作者が特定できていないのか。 じゃー 私は運慶にしよっと!“
“僕は、やはり心情的に快慶だな ”

 
 
 
 
(*1)重源が自ら生涯にわたる造営の事蹟を記した「南無阿弥陀仏作善集」によると約60棟の造営が明記されている。  建築様式の歴史と表現 中川武 彰国社
(*2)維那
寺院で僧に関する庶務をつかさどり、またそれを指図する役職。
(*3)行基菩薩 天地天皇7年〈668 年〉 - 天平21年(749年)
飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した僧。
調停が、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、近畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。
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