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うちの猫は向こうからやって来た

うちに来た猫の話をしましょう。猫と人の付き合いは色々な形があります。
キャッツの名古屋公演は先日5月末で終わってしましましたが、その直前にいきました。全編、個性的な野良猫だけで飼い猫は一匹も出てきません。
キャッツは1980年代末に初めてNYで見て以来のファンですが、今回改めて最後のオールド・デュトロノミーの言う「猫は犬と違う」の決め台詞が気になりました。
聞く人により色々な聞こえ方がするでしょうが、今までは単に猫好きの人(作家)が猫ひいきのあまり、人間に追随する犬を軽蔑している言葉のように聞こえ、少し嫌な感じを受けていました。僕は犬も好きです。
ただ、今回見直して、再度考えてみると、単に文字通り「生き方、生きる目的が違う」、と言っているだけで、侮蔑的な意味合いはないように感じました。
その意味では家の中だけで飼われていて、外へ出る時は繋がれて散歩している今時の猫はDNAでの分類とは違い、人間に友達や家族として大切にされている“犬”に近いと感じます。
人間から独立しながら、一方で人間を利用し、悪さをし、嫌われる一方で、友好的な関係も築きつつ、自分の判断で短い命を生きていく”野良猫”と、家の中で飼われて食事の心配もなく、病気になれば手当してくれ、猫かわいがりしてもらえ、長生きする”家猫”がいますが、人間の生活との関わりが深いのは共通していています。ただどちらが、本来の猫の姿かは、比較の仕様がないです。これは近所付き合いの薄くなった現在の人間の生き方にも重なります。
ちなみに、うちに居ついてくれた猫はむこうから、どこからともなく現れ、居場所としてうちを選んでくれた猫達ばかりでした。次回から、僕の長~い猫達との付き合いについて少しずつ思い出しながら書こうかと思っていす。どの猫もこちらが選んで飼ったのではなく、ある日から自然にうちの猫になっていました。みんな、すごく印象的で最高の友達で、時には家族でした。
写真は、数年前に度々うちに来てごはんを食べてった猫です。その当時は多分“純”野良猫で、勝手につけた名前は“グーちゃん”です。他では嫌われる事も多いようで、警戒心が強く、触らせてはくれませんでしたが、心は通ったと思っています。“純”野良猫といいましたが、始めはどこかで飼われていて、何らかの事情でノラになったのかもしれません。

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