列仙酒牌ー張良
『列仙酒牌』に載せられている仙人は、老子のような伝説の人とは限らない。歴史上実在し、中国の正規の歴史書に名を連ねている人物も、また仙人とされている。その代表が、今回取り上げる張良である。
司馬遷の『史記』では、列伝ではなく、帝王の座の戦いに直接的に関与している世家の一員として留公世家の巻が立てられている人物であり、『漢書』にも巻四十張陳王周傳列伝第十として巻が立てられている。
張良という人は、長い中国の歴史の中でも屈指の知謀の臣と伝えられている。秦を亡ぼし、漢という大帝国を築き上げた経緯は、まあそこいらの歴史の本で読めば、この張良がいかに功績があったかわかることなので、こヽで私がくどくど引用しても意味がないだろう。
漢の高祖自身は、私個人の見立てとしては、そう実務的な能力のあった人とは思えない。一言で言ってしまえば、女好きで締りがなく、自分の身の安全を第一に考えているだけで、決断力の乏しい人であった、と思っている。漢という帝国を築いた原動力となったのは、張良、韓信及蕭何であり、そのことは高祖自身の言葉に尽きている。張良の部分の大意は「謀を陣中で考えて、千里の外でその勝利を決めるのは子房(張良)に及ばない」。
中国の歴史にはこの漢の高祖だけではなく、こう言った型の人間で王朝の創始者になった人物がいる。劉宋の劉裕もその一人である。魏書によれば劉裕は「バクチで財産を使い果たしてしまい、字もほとんど読めずに周囲から呆れられ、借金も返さずすさんだ生活をしていた」。それでいながら、不思議と人望があり、その周囲に人が集まってくる「大人(タイレン)」と呼ばれるような人々が中国の歴史には現れてくる。個人としてはどう優れているのかよくは解らないが、いろいろなすぐれた能力を持つ部下を心服させ、その上に立って大事業を成し遂げる人物。その頂点に立つような人(漢高祖、宋劉裕)はそれこそ皇帝になる以外は使い道がないのではないかと思えてしまう。
列仙酒牌の張良の図を以下に示す。<張良_列仙酒牌>
図の讃は次のように読める。
【讃】高鳥尽、良弓藏。借箸而筹、辟穀法
(訳)高く飛ぶ鳥がつきはてると、良弓はしまい込まれる。
箸を使って占いをして辟穀法を選んだ。
(酒約)方下箸者先酌、挙座作袂楽飮。
(訳)箸を置いたものが先ず酌をしろ。皆んなで袂をあげて楽しんで飲め
讃の前半の部分は、同じ漢創業時の功臣韓信の言葉である。
漢の高祖は、当時斉王に任じていた韓信を騙しておびき寄せ、韓信を捕らえて、後釈放したが、その捕らえられる時に韓信が高祖に対し言った言葉の一部である。
後半の 借箸而筹は、高祖が酃食其の献策を取り入れて六国の子孫を各地の王とする案を、張良が斥けた時に、張良が高祖に言った言葉である。
それをまとめてこの一文の意味を解せば「能力ある張良もいずれは捨てられる。策を練って思いついたのが辟穀の法、すなわち仙人になると言って政界を引退することである」。
話を元に戻すが、張良は正史に記載されているれっきとした実在の人物である。
この張良が何故に仙人とされるかというと、黄石公という仙人から太公望の兵法書を頂戴したというだけでなく、張良自身が赤松子(古代の仙人)をしたって隠退をし、辟穀(穀物を食べない)、導引(一種の体操)をして仙人修行を行っていたと史書に記載されているからである。
しかし「呂后(高祖のかみさん)が強いて張良に穀類を食べさせた」とも記されている。
張良ほどの頭の良い男なら、韓信や黥布の運命をみて、このまま高官として仕えていたならばいつの日か粛清されるだろうと予測し、先手を打って引退したのだろうと考えられる。隠退して政治から離れる以外、身の安全を図る方策は無いと…。
しかし「留候不擬(張良の息子)は、孝文帝の五年に、不敬罪に坐して国を除かれた」という一文で『史記』の留候世家は終っている。
蛇足自注
漢高祖の自身及び家臣への評価の言葉
高祖曰:「公知其一,未知其二。夫運籌策帷帳之中,決勝於千里之外,吾不如子房。鎮國家,撫百姓,給餽馕,不絶糧道,吾不如蕭何。連百萬之軍,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。此三者,皆人傑也,吾能用之,此吾所以取天下也。項羽有一范增而不能用,此其所以為我擒也。」(『史記』巻第八高祖本紀)
宋劉裕への総括的評価
島夷劉裕,字德輿,晉陵丹徒人也。其先不知所出,自云本彭城彭城人,或云本姓項,改為劉氏,然亦莫可尋也,故其與叢亭、安上諸劉了無宗次。裕家本寒微,住在京口,恒以賣履為業。意氣楚剌,僅識文字,樗蒲傾産,為時賤薄。嘗負驃騎諮議刁逵社錢三萬,經時不還。逵以其無行,錄而徵責,驃騎長史王謐以錢代還,事方得了。落魄不修廉隅。 (魏書巻第九十七・島夷劉裕)
韓信の言葉
信曰:『果若人言,「狡兔死,良狗亨;髙鳥盡,良弓藏;敵國破,謀臣亡。」天下已定,我固當亨!』 (『史記』巻第九十二淮陰候列伝)
張良の高祖に対する返答
張良對曰「臣請藉前箸為大王籌之。」
(張良は答えて言った「ご前においてある箸をお借りして示めさせていただきましょう」)
尚、この部分の全文は以下のようになっている。
(漢が封建制を止め、中央集権制を採用した一件であり、漢高祖の人柄もよく解る)
漢三年,項羽急圍漢王滎陽,漢王恐憂,與酈食其謀橈楚權。食其曰:「昔湯伐桀,封其後於杞。武王伐紂,封其後於宋。今秦失德棄義,侵伐諸侯社稷,滅六國之後,使無立錐之地。陛下誠能復立六國後世,畢已受印,此其君臣百姓必皆戴陛下之德,莫不郷風慕義,願為臣妾。德義已行,陛下南郷稱霸,楚必斂衽而朝。」漢王曰:「善。趣刻印,先生因行佩之矣。」
食其未行,張良從外來謁。漢王方食,曰「子房前!客有為我計橈楚權者。」其以酈生語告,曰「於子房何如?」良曰「誰為陛下畫此計者?陛下事去矣。」漢王曰「何哉?」張良對曰「臣請藉前箸為大王籌之。」曰「昔者湯伐桀而封其後於杞者,度能制桀之死命也。今陛下能制項籍之死命乎?」曰「未能也。」「其不可一也。武王伐紂封其後於宋者,度能得紂之頭也。今陛下能得項籍之頭乎?」曰「未能也。」「其不可二也。武王入殷,表商容之閭,釋箕子之拘,封比干之墓。今陛下能封聖人之墓,表賢者之閭,式智者之門乎?」曰「未能也。」「其不可三也。發鉅橋之粟,散鹿臺之錢,以賜貧窮。今陛下能散府庫以賜貧窮乎?」曰「未能也。」「其不可四矣。殷事已畢,偃革為軒,倒置干戈,覆以虎皮,以示天下不復用兵。今陛下能偃武行文,不復用兵乎?」曰「未能也。」「其不可五矣。休馬華山之陽,示以無所為。今陛下能休馬無所用乎?」曰「未能也。」「其不可六矣。放牛桃林之陰,以示不復輸積。今陛下能放牛不復輸積乎?」曰「未能也。」「其不可七矣。且天下游士離其親戚,棄墳墓,去故舊,從陛下游者,徒欲日夜望咫尺之地。今復六國,立韓、魏、燕、趙、齊、楚之後,天下游士各歸事其主,從其親戚,反其故舊墳墓,陛下與誰取天下乎?其不可八矣。且夫楚唯無彊,六國立者復橈而從之,陛下焉得而臣之?誠用客之謀,陛下事去矣。」漢王輟食吐哺,罵曰「豎儒,幾敗而公事!」令趣銷印。(『史記・巻第五十五』留候世家)
張良の仙人志向
留侯從上擊代,出奇計馬邑下,及立蕭何相國,所與上從容言天下事甚衆,非天下所以存亡,故不著。留侯乃稱曰:「家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,為韓報讐彊秦,天下振動。今以三寸舌為帝者師,封萬戶,位列侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。」乃學辟穀,道引輕身。會高帝崩,呂后德留侯,乃彊食之,曰:「人生一世間,如白駒過隙,何至自苦如此乎!」留侯不得已,彊聽而食。
後八年卒,謚為文成侯。子不疑代侯。
子房始所見下邳圯上老父與太公書者,後十三年從高帝過濟北,果見穀城山下黃石,取而葆祠之。留侯死,并葬黃石冢。毎上冢伏臘,祠黃石。
留侯不疑,孝文帝五年坐不敬,國除。 (『史記・巻第五十五』留候世家巻)
【参照】
『任渭長木刻画四种』<学苑出版社、中国>
『酒牌』<山東書籍出版社、中国>
野口定男訳『史記』(平凡社)司馬遷『史記・巻第八』高祖本紀
野口定男訳『史記』(平凡社)司馬遷『史記・巻第五十五』留候世家巻第二十五
野口定男訳『史記』(平凡社)司馬遷『史記』巻第九十二淮陰候列伝巻三十二
『太平廣記・巻第六』張子房<出仙傳拾遺>
『魏書・ 巻第九十七』島夷劉裕列伝八十五
吉川忠夫『劉裕―江南の英雄 宋の武帝』<中公文庫→法蔵館文庫>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?