白楽天⇒亀田鵬斎

亀田鵬斎の詩文をぱらぱら見ていたら、『鵬斎先生文鈔』に「老子讃」なる文章を見つけた。全文を書き下せば、次にようになる。
道徳五千言。   『老子』では
不言薬。     不老不死の薬のことなど何も言っていないし、
不言仙。     仙人についてもなにも言っていないし、
不言白日昇天。  日中に昇天して仙人になれるなんても言っていない。
其道維何。    老子の言う道とは何か?
清浄無為自然。  きれいさっぱりに無為自然ということだけである。

この讃では、まったく「海漫漫」の句を取り込んでいる、ということは、江戸時代にはこの「海漫漫」を含む新楽府の一群の詩も読まれていたのであろう。
文章の題が「老子讃」となっているからには、老子が描かれた図があって、それに鵬斎が讃を書き込んだのであろう。そんな図が見つかればと、手持ち(と言っても数冊だけ)を見てみたが、見つからなかった。鵬斎の讃の多くは、自身の画に書き込んでいるのが多く、抱一や文晁の画に書かれていることも多いから、どれであっても面白いと思い探がしたが、残念ながら見つからなかった。

亀田鵬斎といっても今の世の中では知らない人がほとんどだろうから、ちょっと書いておこう。
江戸中期の儒者で、神田生まれ。独立して私塾を開いた。何事もなければ、このまま繁盛した塾の大先生であり、酒と書を愛して一生を送ったはずであり、そうであれば私のような一般人がその名前を知ることもなかったであろう。谷文晁描くところの亀田鵬斎像を下に示す(讃は鵬斎自身)。

谷文晁画 亀田鵬斎像

ある時から亀田鵬斎の繁盛していた塾は、塾生が一人減り二人減りとさびれていった。別に鵬斎がなにかまずい事をしてしまったわけではなく、幕府の政策のよってであった。この政策を「寛政異学の禁」という。

(以下の解釈は私見に基づいているので、異論のある方は「浅薄」「愚見」と心に思っていてくれ)
田沼意次を排除して老中になった松平定信は、当時の混乱を「正しい学問が行われていない」為と考え、「世の中を正しい考えに導いて行けば、自然と良い世の中になる」と考えたのだろう。兎角、思い込みの激しい方々によくみられる現象で、周りの迷惑・困惑などは悪の残滓としか考えなく、自分の意見を他人に強制していくものである。

まず幕府の学問所である昌平坂学問所(昌平黌)の教授陣を「松平定信が正しい学問と考える」朱子学の儒者でかためようとした。例えば大学頭林信敬(昌平黌)は気乗り薄であったが、病弱な為死んでしまうと、幕命で林家に養子を入れ(林述齋)、意のままにした。こういう時勢になると、お上の仰有るままに動く儒者がのこのこ顔を出し、広い世の中の見えない狭い了見の田舎儒者が出張ってくる。

上の識見が狭くなれば、下へ行くほど更に狭苦しい規制になるのは世の常。
「寛政異学の禁」は、建前は「幕府直轄の学問所で朱子学以外を講義する」事を禁じただけだが、いつの世でも役人という者は「忖度する」ことが生きる指針であるから、各地の大名の学問所でも幕府に右に倣えで朱子学一辺倒となった。
江戸の塾に通う人々は、ほとんどが幕府に何らかの職を得ている者か各大名の家臣であったから、こんな風潮になれば朱子学一辺倒ではない塾には誰も行かなくなるのは自然の成り行きである。
そして亀田鵬斎の教えていたのも純粋な朱子学ではなく、折衷学と呼ばれる井上金峨の系統のものであった。「寛政異学の禁」に反対した儒者五人を「寛政の五鬼」というが、亀田鵬斎もその中に入っている。

松平定信自身は禁欲的な人物で、儒教的規範に則して生活するのが自然と考えていたのだろうが、田沼時代を通じて自由闊達に生きる空気を味わった江戸市民にとっては窮屈なものであったろう。
だから松平定信も昌平黌の教授に、田舎出身の儒者、特に四国・大阪地方からのものを多く採用した。誰をといったようなことはnetででも見てくれ。
一例をあげれば、尾藤二洲は四国出身で大阪で私塾をひらいていた儒者であるが、「小賢しく卑近な説を立てたのは伊藤仁斎であり、のち荻生徂徠によって功利説が生まれ、風流を好む放蕩三昧の世に堕落したと述べる」(杉村英治『亀田鵬斎』)。京都で門下生三千人とうたわれた仁斎、江戸で羽振りを効かす徂徠への怨念が滲んでくる感がある。

まぁ歴史を眺めてみても、支配者が「思想を正す」として思想統制をおこなった時代は、庶民にとって息苦しい時代であったと思う。こういった方々は、大概の場合、具体的な政策として何かを行おうとするのではなく、自分たちに異論を唱えるものを悪と断定し、悪を排除すれば善の時代が来ると盲目的に信じているのがほとんどである。よくあるカルト教団の支配者版といってもよい。
「スターウォーズ」の世界じゃあるまいし、悪の帝王を倒しただけで素晴らしい世界が開けるわけではあるまい。

亀田鵬斎は現在でもその書に高い評価が与えられている人である。
その塾が成り行かなくなった鵬斎は、結局は頼まれては書を書くことを生業としていくようになるが、やはり江戸の人々というか、田舎の人の野暮ったい教条的な考え方に反発したというか、亀田鵬斎の人気は高くなっていった。
「ちなみに下谷金杉に移ってからの鵬斎の潤筆料は一日五両を下らなかった」(渥美国泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』)と言われており、こういった金銭面での裏付けもあって、鵬斎は書と酒の優雅な日々を過ごすことができたようである。
下に載せた図は、鵬斎が当時超一流とうたわれた料理屋八百善で会食している図である。

亀田鵬斎ー八百善での会食

亀田鵬斎は、江戸文化人の中心人物の一人として、各種の催し物に招かれて満ち足りた一生を送ったであろう。「文成九年(1826)三月九日、下谷金杉、根岸の自宅で、七十五歳の生涯を終えた鵬斎の葬式には、会葬者の列が、下谷からこの隅田川畔の今戸の称福寺、延々と続いたといわれている」(渥美国泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』)

亀田鵬斎については気に入っているので、そのうちまたどこかで取り上げてしまうだろう。少なくとも『胸中山』と『佛説摩訶酒佛妙楽経』は世から離れた気分で過ごすには、私には必須のものだから(呵々大笑)

【蛇足自注】

井上金峨(折衷学)の言葉
その可なるものを取りて之を用い、其の不可なるものは之を捨つ。孟子の性善、荀子の性悪より降りて程朱陸王及び伊物に至るまで、必ずしも古に合わずと雖、要は己に得るあり(『師辯』引『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』)
==注注==
程朱:程=程明道 ・程伊川。朱=朱熹。程朱で朱子学(性即理)を指す。
陸王:陸=陸象山。王=王陽明。陸王で陽明学(心即理)を指す。
伊物:伊=伊藤仁斎。物=荻生徂徠
   (徂徠は、物部氏の子孫として、物を中国風の姓とした)

尾藤二洲の言葉
終身書を読みて、而して道の何物たるかを知らず。精を竭して文を作りて、而して天下に益無し。今人の学、今人の文、大率此くの如し。(尾藤二洲『素餐録』)
(要するに、自身の解釈に基づいた朱子学以外は駄目、と言っているのであろう。田舎儒者によくある意見である。)

スターウォーズ的な発想
悪の帝王ビン・ラディンを急襲し、暗殺に成功して小躍りしていた弁護士上りの男を思い出す。あれから十年以上経ったが、なにか世界が良い方向に動いたのであろうか?
この世はハリウッドのお芝居ほど単純じゃない。結果として残ったのは「都合の悪い奴は殺してしまい。理屈は後からどうにでも付けられる」という弁護士の能書が蔓延る世界。

【参照】

杉村英治『亀田鵬斎』(三樹書房)
杉村英治編『亀田鵬斎詩文書画集』(三樹書房)
渥美国泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』(芸術新聞社)
江戸文人交遊録(世田谷区立郷土資料館)
源了圓『徳川思想小史』(中公文庫)  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?