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潰れていくランナー③ 高校2年生

こんにちは。
今回は高校2年生の出来事をご紹介します。高校1年生でも私的には満足してなかったですが、高校2年生の時は本当に苦しみました。

前回は怪我の話をして終わりました。2月に左足のアキレス腱怪我をして3月に走り始めましたが、私はものすごく焦っていました。理由は1日休むと戻すのに3日かかるということを信じてしまっていたため、約1ヶ月走れなかった私は力を戻すのに3ヶ月かかると思っていました。しかし、量と強度を戻せばすぐに上がってくると思っていたため、いきなり量を元に戻したり、それ以上やってしまいました。強度もすぐには戻せなかったものの無理をしてこなしていました。そして、もう一つの理由として4月には新入生が入部するため、弱い自分を見せたくなかったからです。高校へ入部してくる新入生は元気があり、走りにもキレがあります。そんな新入生に負けたくない思いが強かったです。3月20日辺りに現状を把握するために記録会に出ました。まだ身体が絞れておらず、スピード持久力もついていませんでした。なんと、15分50秒もかかりました笑。かなり、落ち込みましたが、まだ3週間くらいしか経っていなかったので前向きな捉え方はできました。そして学年が変わり、6人の新入生が入部しました。かなり力があり、スピードがありました。長距離経験の方は分かると思いますが、まずペースに余裕を持てるからそのペースを保つことができるのです。なので、ペースについていけないことは話になりません。私は新入生のスピードに驚き、そして焦りました。それからはまず15分を切ろうという目標を立てました。4月に再び記録会に出ました。結果は15分12秒だったと思います。3000mまでは良かったですが、そこから腰の痛みも出てしまい、失速しました。悔しかったですが、少し走りの感覚は良くなっていました。次は織田記念に出場しました。強い選手が揃うので、記録を狙おうと思っていました。レースが始まってすぐについていけなくなり、ずっと最下位を走っていました。危うく1周差にされるとこで、15分26秒もかかりました。この時スポーツをしてきて初めて自然と涙が出てきました。情けなくて仕方なかったです。この大会でも少し感じていましたがここから私はぬけぬけ病のような症状が出始めました。貧血でもないのに脚が棒のようになってしまい力が入らない状態が続きました。それからは普段のジョグでも脚に力が入らない感覚があり、力まないと走れなくなってしまいました。本当に自分の身体ではないのかと思うほどでした。ポイント練習では、アップの時点できつく、ポイント練習の最後の方はもがきなら走ることが多かったです。ここで私が1番気になったのは接地音です。以前は接地する時にほとんど音は出ていなかったです。ですが、どう接地しても音が出るのです。つまり、もう無意識に力が入ってしまっているということです。夏休みになり、学校の練習は8時15分に始まります。私は朝練で8k走ってから行っていました。学校での練習は11時ごろに終わります。そして帰って涼しなる6時ごろからまた10kmほど走っていました。なので、1日合計35kmほど走っていることになります。この年は合宿はなかったので、ほぼこのような形で練習していました。日曜日はオフでしたが、朝の涼しい時間に90分ほどのLSDを行っていました。8月は2回完休しましたが、980kmくらい走りました。距離信者だった私は秋になればきっと強くなると信じで取り組んでいましたが、強くなっている実感は全くなくむしろ弱くなっている感覚がありました。8月の暑い中でこれだけ走ればダメージはかなりあります。私も多少頭はありますので9月は徐々に練習を落としていこうと思っていました。しかし、実際はなかなか練習量を落とすことができませんでした。これだけでは足りないのではないかと常に考え、当初の距離よりも多く走ってしまうようになり疲労も全く抜けませんでした。この時から私は走っている時に過呼吸になるようになりました。疲労もあるとは思いますが、精神的なストレスからなのかもしれなかったです。最初はポイント練習だけでしたが、ジョグでも過呼吸になるようになりました。そうなると状態から過呼吸になることが予想できるようになり、走るのが本当に怖くなっていきました。こうなると自分の身体の状態を知りたくなり、ネットや本で自分の症状を調べるようになりました。行き着いた先はオーバートレーニング症候群でした。しかし、自分は軽い貧血持ちでした。なので、オーバートレーニング症候群とは言えないと勝手に自分で思い込んでいたため専門の病院には行きませんでした。というよりも、もし診断された時に休まなければいけなくなるのが嫌でした。それは今までの練習が水の泡になると思っていたからです。今思えば、ここでしっかり休んでいればまた変わっていたのかもしれません。トレーニングは回復して初めて効果が出て来ます。回復力を超えたトレーニングをすることで身体は適応できなくなり、パフォーマンスを落とします。今の私の身体の状態はパフォーマンスを発揮できない状態にあり、さらに回復力が落ちた状態です。何故休まないといけないのかと言ったら、身体が練習に適応できる状態にリセットしなくてはならないからです。このことは分かっていましたが強迫観念というものは怖いですね笑。心では休みたいと言っているのに実際に取る行動は真逆で自ら自分を苦しめていく。こうなるといずれは体はいうことを聞かなくなってしまいます。すると今度は心が病んでいきます。これがオーバートレーニング症候群の怖いところです。ほぼ鬱病みたいなものです。話は戻りますが、9月になるとレースがあるため流石に練習量は落としていきました。しかし、今度は質が上がるため、本当にいつもギリギリで踏ん張っていました。ちょうどこの時にドラゴンフライが一般的にも手に入るようになりました。私は道具に頼るのは好きではありませんが、結果を出すためには使用するしかありませんでした。初めて履いた時は衝撃でした。スピードを出せなくなっていた私は本当に救われました。少しずつですが、状態は戻ってきて新人戦で優勝することを目標にしました。去年は14分30秒で走って優勝しましたが、現状ではそのタイムでは走れないで勝ちにこだわりました。2000mできつかったですが、なんとか粘って14分47秒でまとめ、優勝できました。安心はしましたが嬉しさはなかったです。しかし、この後からは全く調子が上がりません。トラックでタイムを出すことは諦め、駅伝に集中しました。幸いにも同期が力をつけてくれていたので、同期に10kmを任せることにして、私は8kmを走る練習に取り組みました。昨年10kmを走っている私には屈辱感はありましたが、どうしても10km走り切れる自信がありませんでした。8kmの練習で2回単独のペース走をしましたが、2回とも過呼吸になりました。走り切るのがやっとでした。そんなこともあり、とても不安で県駅伝を迎えました。私は3区を任されました。私に2位で襷が渡りました。前の城北高校と近かったので、すぐに追いつきました。思ったりも動き良いペースで走っていましたが、後ろから米子松蔭の選手がやってきてすぐに抜かれました。その選手はとても強かったですが、思っていた以上に強かったです。ペースが落ちず、私はどんどん離されていきました。4kの折り返し地点の辺りで私は過呼吸になりました。まさか、レースでなると思ってもいなかったのでパニックになりました。声を出しながらもがきながら走りました。観戦している人からすればヤバかったと思います笑。なんとか襷を2位で渡しました。この大会は私の中でかなりトラウマになりました。私がしっかり走っていれば優勝は狙えましたし、何より観戦している人に弱い自分を見せてしまったことが心に残ってしまいました。もう走るのを辞めようかと考えていましたがスポーツ推薦で寮生の私はそんなこと言える勇気はありませんでした。なんとか気持ちを立て直し目標を中国駅伝の1区で勝負することにしました。あれほどきついレースを味わったので、なんとか身体も動いてはくれました。ハイペースではなかったのでなんとかまとめて30分25秒で6位で渡すことができました。チームは総合4位で2時間9分28秒でした。1.2年のチームだったのでかなり良い記録でした。自分的にも満足はいっていませんが、力は出せたと思います。そして、12月に京都の記録会に出場しました。ここで、トラックレースは最後となり、都道府県駅伝の選考は終わります。どうしてもタイムを出したかったですが、ペースについていけず14分50秒だったと思います。なのでこのシーズンのベストは新人戦の14分47でした。私のチームで14分30秒台を出した選手がいたので本来はその子が選ばれるはずでした。しかし、駅伝の走りを考慮して私が選ばれました。米子松蔭から2人、鳥取城北から1人で3人とも3年生でスピードがありました。スピードが出せなくなっていた私は劣等感を感じていました。選ばれた嬉しさはありましたが、不安の方が大きかったです。その不安は的中して練習の質が高く、ついていけなかったです。精神的にもかなり不安定になっていました。
ぬけの症状が出たり、過呼吸にもなったりしました。しかし、高校生からは3人走らないといけない中でもう1人不調の選手がいたので私が走る可能性があったのです。日が迫るにつれて内心は走りたくなかったので焦りがでてきました。ですが、なんとこの年はコロナウイルスの影響で大会はなくなりました。こんなこと言ったら怒られますが、本当に救われました。多分もし走っていたらまたトラウマになる結果となっていたと思います。こうして2.3月は大会もなく、少し気を休ませることができました。しかし、過呼吸はほとんどなくなりましたが、脚のぬけ感は消えず思うようなスピードが出せませんでした。こうなったら走ること自体がストレスです。毎日毎日またかと自分に失望し、どうせ治療に行っても変わらないと思い行動もできませんでした。そして、3年生は引退され私がキャプテンを任されることになりました。私の学年は5人しかいなかったので多分私がなるとは分かっていましたが、本当はあまりしたくありませんでした。今回はこの辺り終わりたいと思います。

2年生は1番苦しみました。本当にボロボロの状態で駆け抜けた感じです。2年生は根性だけで不調に対してほぼアプローチをしてなかったです。次回の3年生では状態が上がらない中で行ったことをご紹介します。


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