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『MONEY』を聴いてフジテレビを思う
『MONEY』というモンスター
最近、こちらの記事を読んで「ああ~こういう歌もあったな…」と思い出した。
浜田省吾の『MONEY』を初めて聴いたとき「日本人でもこういう詩を書く人がいるんだ」という感想を抱いた。
●地元のさびれた商店街
●父親代わりで街に残ったままの兄
●主人公を捨てて街を出た彼女
こういう点描と「MONEY」という叫び。
70年代のビリー・ジョエルの『Piano Man』とか『Movin' Out』や『Big Shot』を彷彿とさせる内容である。
若い世代の人が聴くと「ドン・ペリニヨン」とか「メルセデス」とか「プール付きマンション」と「MONEY」という叫びから、どこか欲情を刺激され奮起させてくれる曲として捉えることができるだろう。
でも、改めて聴くと「欲しいものは全てブラウン管の中」という箇所に引っかかる。前出の記事の渡邉氏のご指摘は全くその通りであると納得できる。
MONEYは価値尺度手段であり交換手段であり価値貯蔵手段の機能がある。生活が便利になるようにと人間が発明したMONEYが今や人間を振り回すモンスターに変容した様を浜田省吾は『MONEY』で喝破したのだ。
『MONEY』が発表されたのは1984年。まさにバブル経済前夜と言える時期で、浜田省吾はアーティストの鋭い感性でその危うさを感じたのかもしれない。その一つの結末が現在世間を騒がせているフジテレビ問題だと思える。
コマーシャリズム
現在は大量生産された製品を商品として消費していく社会である。消費者に商品を周知するには広告が不可欠となり広告代理店が牛耳っていく。マスメディアは報道機関と同時に広告媒体でもある。どちらに重心を置くかはそれぞれの考え方であるが、フジテレビは広告媒体として軸足を置いた。バラエティ番組に力を入れ、トレンディドラマを流行らせ、女性アナウンサーのアイドル化に先鞭をつけたのである。
商品とプライバシー
コマーシャリズムは、あらゆるものを商品として捉え利益を追求する。商品にプライバシーはない。ヒトが商品化されれば、そのプライバシーは制限される。往年のアイドルたちの殺人的なスケジュールをみればよく分かる。彼らが回顧して口にするのは「当時は寝る間も無かった」という言葉だ。歌番組でも移動中の列車が駅に停車している間に歌の中継をするアイドルもいた。当時のミュージシャンたちが歌番組の出演を避けたのは、商品化されてしまうことを恐れたからだろう。
アナドル
フジテレビは自社の社員である女性アナウンサーの一部をアイドルと同等の立ち位置にした。いわゆる「アナドル」である。歌を歌ったりドラマに出演したり今までのアナウンサーの概念を破った存在である。
ここでフジテレビの歴代女性アナウンサーの中で私がアイドル的な活躍をしたと記憶している方々をピックアップさせていただく。アナウンサーも公人なので敬称は省略させていただく。
●1984年入社 寺田理恵子
彼女は『オレたちひょうきん族』のアシスタントを務め芸人たちにいじられていた記憶がある。アイドル女子アナの元祖と呼ばれているらしい。
アイドル女子アナの元祖と言われる彼女の入社が浜田省吾が『MONEY』を発表した84年だったのには少々驚いた。
●1985年入社 長野智子
彼女も『オレたちひょうきん族』のアシスタントを務めていたが、後にはバラエティから報道の方へ軸足を変えた印象がある。彼女は元々報道がしたかったようだ。
●1987年入社 中井美穂
彼女がトレンディドラマ『同・級・生』に安田成美演ずるヒロインの大学時代の友人役として出演した時は私も驚いた。準主役級が女優の山口智子と並んで女性アナウンサーの中井美穂だったから、女性アナウンサーのタレント化の象徴とも言えるだろう。
●1988年入社 有賀さつき 河野景子 八木亜希子
彼女らは「花の三人娘」と呼ばれ、ここで女子アナブームの全盛期を迎えたと言える。
その後、フジテレビの女子アナの愛称が「〜パン」が付くようになるなどアイドル化の系譜は続いていくこととなる。私はアナドルと呼ばれた女子アナたちに非があると言っているわけではない。彼女らは会社が要求する役割を仕事として誠実に務めただけである。
ただアナドルの系譜を見ていくと、バブル経済という狂乱の時代に合わせるように咲き誇ったのがアナドルだった。バブル経済崩壊後も一部の女子アナをアナドル視して、それが彼女らのプライバシーを軽視する風潮がフジテレビ内に生まれていったかもしれない。問題となっている編成幹部は『めちゃイケ』時代にはカメラに自ら顔をさらし女性タレントにセクハラまがいのことを平気でしていた。この編成幹部は自らを商品化したと言える。そういう感覚の麻痺がヒトを商品化する恐ろしさなのだ。若い頃に自らタレントと同等のことをしていたのだから、記者会見するなりしてカメラの前で釈明すべきである。
そういう企業風土が今回の中居正広の事件を生む土壌となったのであろう。事件発生後のフジテレビの対応は発表された事実だけを見ると、被害者のプライバシーを盾にして被害者の人権を踏みにじったように私は感じてしまう。
フジテレビのドラマやバラエティを楽しませてもらった視聴者としては、一刻も早く立ち直っていただきたいと切に願うばかりである。今放送中のドラマ『アイシー〜瞬間記憶捜査・柊班〜』を私は気に入って観ているのだが、こんな騒動の渦中の放送となってしまい主演の波瑠が気の毒である。
ミス・ブランニュー・デイ
1984年に浜田省吾が発表した『MONEY』を改めて聴いて以上のようなことを思ったのだが、同時期にサザンオールスターズは『ミス・ブランニュー・デイ』を発表している。やはりミュージシャンの鋭い感性がバブル経済の到来を予感し、その危うさを感じていたのだろうか…