見出し画像

聖なる明治神宮

〈SungerBook-4〉

先般、秋のよく晴れた日に、明治神宮へ行こうと思い立ちました。原宿に行くのは何年振りになることでしょうか。考えてみれば都内にあって、こんなに身近で山深い場所があったと気づけば、無性に心惹かれるのでした。

明治神宮鎮座百年大祭ということで、令和二年は格別の年にあたるようです。邦楽や邦舞など、日によってさまざまな演目が企画されていたとは、後で知りました。大祭の情報がきっかけになったことは間違いありませんが、イベントではなく、明治神宮そのものに吸引されたのだと思っています。

本殿に向かい参道を歩いている間、この道が結構長かったことが思い出されました。およそ30年前に初詣に来たことがあるのです。物凄い人出でした。参道を人が埋め尽くして極めてゆっくりしか進みません。それでも人は集まり、それでも人は本殿に向かいます。この吸引力はどこからきているのだろうと思いますが、長いアプローチ自体が初詣とでもいうしかありません。

しかし、今はそのような混雑があるわけではありません。とはいえ、結構参拝客があるのは百年大祭のせいだろうと思われました。それにしても、都心でこんな森林浴に浸れるとは何か意外な感じがします。もともと、こんな森だったのでしょうか。

山の手線の音から刺々しさが、少しずつ薄れていきます。本殿まではかなり歩かなくては、とは思いつつも、一歩一歩確実に引き込まれていくものがあります。もうすぐ、第二鳥居です。もし私が国木田独歩のような文章力があれば、この両側に展開する樹木や梢や小鳥や空気の揺らめきを活写せずにはいられない、と思わせる世界がここには広がっています。

左へ曲がり第二鳥居を過ぎても本殿は見えてきません。一体、この参道はどこまで続くのでしょうか。私は明治神宮という、ある意味抽象的な場所へ向かっているわけですが、これは明治天皇に拝謁するために向かっている過程とも言えましょう。ですから、歴史を遡っているのですから、時間はかかるわけです。この参道は歴史を遡るタイムトンネルででもあるのでしょうか。

わが国の皇統の歴史を「天皇制」などと
制度論に貶めてはならない

御苑北門を過ぎると、左側に大きな掲示板の展示の連なりが見えてきました。鎮座百年大祭に合わせて構成したもののようです。
近づいて真っ先に私の目に飛び込んできたのは、御歌(みうた)です。

花になれ實をもむすべといつくしみ
おほしたつらむやまと撫子

私はこの御歌に触れた瞬間、うるっときそうになりました。和歌の調べに反応したものと思われます。音楽を聞いていて、メロディラインにしびれることはありませんか。これは昭憲皇太后御歌ですが、皇太后の高貴な音楽に触れた思いがしたのです。本殿に向かい、左右に森林、清浄な大気の中を歩くなか、思いがけず艶やかな旋律に見舞われ、邪念に満ちた私の内面を洗い立てたものかと振り返ります。

錚々たる面々。明治はすごい

野外に設営された大掲示板の展示は、次々に明治神宮のヒストリーを表現していました。明治天皇のこと、昭憲皇太后のこと、日本の基を築いた数々の偉人たち、この神宮の杜設営に関わった技術的関係者たち、展示により明治の偉大さ、ディグニティが開陳され私に迫ってくるのでした。

わけても、この神宮の杜形成のエピソードは圧巻でした。

こんな事実全く知らなかった

「壮大な杜創り ─百年前の情熱と叡智が、いまもこの杜に息づく─ 」

という大タイトルに含まれる部分の一文を掲示より引用します。

「国民から寄せられた十万本の木々」
「明治神宮に植栽する木は、その大半を献木でまかなうべく全国に告示されました。 申込みは殺到し、鉄道で、船で、馬車で、献木が続々と運ばれました。十万本以上の木々が明治神宮に植えられ、原生林を思わせる鬱蒼たる大森林が、東京に忽然と現れました。」

実はこの森が、日本全国の国民の手によって作られたものだったとは、何ということでしょう。
この大掲示板による解説に圧倒されつつ歩を進めると、突き当たりには、明治天皇と皇太后の御製と御歌が並んで掲げてあります。

「神宮の私利なく清いたたずまい
民の祈りの気高さの杜」

そこを右折すると、第三鳥居が見え、社殿エリアが近いことがわかるところまで近付きました。

そうして、本殿に至り、参拝を済ませると、夫婦楠のある広場の空間で、妙に立ち去りがたく、足を引き留める何かがあるのでした。天気もよく、陽の心地よさに浸っていたいと思わせます。

その広場にいたい気持ちから我が身を引き剥がし、本殿を後にしました。

歴史は生きている

参道の復路、私はこの森の空気の清冽さがどこからきているのか、少しわかるような気がしました。路上に目を凝らせば、蒸気のたゆたいなのか、微細な砂埃が舞い上がったものか、はたまた深閑とした樹木の吐息なのか判然としない、表し難いものの横溢があります。

後日、土門拳を読んでいたら次のようなくだりに遭遇しました。

「安井曾太郎先生は、むかし、室生寺に行かれたそうだが、青葉や苔のむせるような匂いが空一面にたちこめているという印象を受けたそうである。安井先生はそれを例のポツンとしたいい方で言葉少なに語られた。本当に室生寺ぐらい山気がジーンと肌に迫るところはない。そして、小鳥の高く澄んだ啼き声がその静けさを一層ジーンと深いものにさせる。」*

これは、写真掲載とももに室生寺について土門拳が書いている一節ですが、ここに、私が明治神宮の参道で体感した空気感とまったく同じ清浄さを見出だしました。この瞬間、渋谷区の明治神宮と奈良県の室生寺が時空を超えて直結する感覚を味わいました。これはワープと言っていいかもしれません。「青葉や苔のむせるような匂い」は違うかもと思われるものの、私は特に探していたわけではありませんが、神宮で体験した感覚に表現を与えたいと思っていたところでしたので、思わず『あ、これだ!』と内心叫ぶとともに、神宮参拝からわずかな日数しか経っていないうちのできごとの不思議を思ったものです。

室生寺は幾人かの芸術家が触れていて、私もぜひ訪ねてみたい数少ない場所のひとつです。土門拳の有名な室生寺のワンカットと、彼の文章に触れて、私はすでにこの名刹を訪れたことがあるように思えてくるのでした。

明治神宮は、百年前に、日本人の叡智と国民何十万人の手仕事によって作られた、皇統の魂を内包した精神遺産といえましょう。

日本の本質がここに鎮座しています。

令和二年の秋の日に、明治神宮がなぜか私を引き寄せて止まなかった力は、ここからきていたのでしょうか。

この明治神宮鎮座百年大祭のキャッチコピーは、

「はじめの百年。これからの千年。

─ まごころを継ぐ 永遠の杜をめざして」

と詠われています。参拝後あらためて読んで、この壮大な時空を超えた表現に、私は、フレーズが一瞬にして「詩」に結晶していく様を見る思いがしています。★

*註

土門拳 ─ 日本を代表する写真家の一人。名文家とも言われる。
安井曾太郎 ─ 洋画家

(初出2021.1.1)










いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集