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コーヒーブレイク
連れ合いがコーヒーを飲みながら、最近は自分で入れた一杯が一番美味いという。
何のことはない彼女は市販の粉をドリップしているだけだし、何ならその粉をセレクトして買ってきているのはわたしなのだが、まぁわざわざ波風立てることもない。
わたしは生返事をする。
こちらの反応が今ひとつと見たのか、連れ合いはたたみかけるように、どんな銘柄のコーヒーが好きなのかと尋ねてくる。
30年も夫婦をやっていて、今更何の話をしているのかと思うが、
わたしには、連れ合いほどコーヒーに対するこだわりがない。
というか、そもそも私はあまりコーヒーを飲まない。
多分結婚した頃に、自分からコーヒーは淹れないので、出すときはブラックを、とだけ伝えたのだろうと思う。
もともと連れ合いにとってコーヒーは職場で飲むものだったこともあって、長いこと我が家の食卓にコーヒーは並ばなかったのである。
だが退職後に彼女は、日に一度のコーヒーの習慣を家で行うようになり、いささか状況が変わってきた。
つまり、せっかく連れ合いが毎朝コーヒーを淹れるのだから、わたしもご相伴に預かろう、ということになったのだ。
それが数年前のことである。
そんな経緯で、最近は毎朝コーヒーを飲むのだが、ただ改めて何の銘柄が好きかと言われると、ちょっと困ってしまうわけだ。
連れ合いはモカの入っているものが良いというので、そういうブレンドを見繕って買ってきているが、実際のところわたしは、モカもマンデリンもキリマンジェロも区別がつかない。
というか、何ならインスタントだって並べて出されないとわからないだろう。
なので、これまた今更ではあるが、俺は馬鹿舌なので、コーヒーの味がわからんのよ、という返事をした。
すると連れ合いは、馬鹿舌というのは、味がわからないのではなくて、何でも美味しく感じる味覚のことなのではないかと言い出したのだ。
いくら私でも、昔マクドナルドで飲んだ、何時間も沸騰させ続けたようなコーヒーは不味いと思ったので、何でもかんでも美味しいと感じるわけではない。
ならば私は馬鹿舌とはいえないではないか。
さてはてどっちが正しいのかと思い、Google先生の意見を聞くことにした。
すると、やはり「馬鹿舌」というのは、単に味の区別のつかないことをいい、連れ合いのいうような、何でも美味しくいただけるという感覚は「貧乏舌」と称するのだと判明した。
うん、貧乏舌、良いではないか、味でも何でも幸福のハードルが低いというのは、大変結構なことである。
この歳になってまた新しいことを知った。
残りの人生この貧乏舌と仲良くしていきたい。