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怪物と失われた記憶について2

昨日の続き。

連れ合いから、病院に迎えに来いという連絡は思いのほかすぐにきた。
ただの運転手ではつまらないので、ついでにファミレスでブランチをした。さあ、続きをやるぞ(まだ何もしていないが)。

さてフランケンシュタインの原典だが、正式には「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」というらしい。
1818年出版、だいぶ昔だ。
当然絶版かと思えばまだ売っていて、880円なのだがちょっと高い。
だからと言ってわざわざ古本で買うのも面倒なので、ここは完全無料の青空文庫にしようと思いついた。
探してみるとあら嬉や、当たり前だがちゃんと版権は切れていて、文庫に収蔵されているではないか。
これで目標は達成したも同然だ。
わたしはさっそく嬉々としてダウンロードしたのである。

こうして手にいれたテキストファイルだが、これがなかなかに長大であることがわかった。19万5千字、分厚い文庫本くらいある。
作者はマリー・ウォルストンクラフト・シェリーとあるが、メアリー・シェリーで間違いないようだ。
問題はこの中から件の一節を探したいわけだが、「作品の最後」といってもどこら辺を読めばいいのか見当がつかないことだ。

試しにちょっと読んでみたが、文章が古めかしく、無駄に重々しい表現に、やや辟易としてしまう。
しかも、製本されていないただのテキストファイルを読むというのは、かなりのストレスだということがわかった。

何しろこんな感じだ

途方に暮れていたが、ここまできて諦めるわけにはいかない。
いろいろ調べてみると、なんのことはない、テキストの検索機能というものがあることがわかった。
いくつになっても知らないことは多い。

そこでわたしの記憶している文句の中から、一番自信のある「愛と友情」という語句を検索してみると・・。

あったのである。
この語句の前後は以下の通り

おれはそれでも愛と友情を欲して、やはりはねつけられた。これには不正がなかっただろうか。人間がみなおれに対して罪を犯したのに、おれだけが一人犯罪者と考えられなくてはならないのだろうか

宍戸儀一訳

人間はみんな、醜いものを除け者にする。どんな生き物よりも惨めな俺が虐げられねばならぬわけだ。俺は愛と友情を切望して退けられた。これは不当ではないのか? 全人類が俺に対して罪を重ねてきたというのに、俺ばかりが犯罪者と考えられる。

タグチの記憶

これはかなり近いではないか。
この程度の表現の違いなら、ドラマの脚本家の改変の枠内である。
シチュエーション的にも、確かに怪物が語り手の前から消えていく直前のセリフだ。
ただ前段の「人間は〜」にあたる文章が原典にはない。前後をしばらく読んでみたが、これに当たる文章は見当たらなかった。

そこで今度は「生き物」「生きもの」「いきもの」などで検索をかけてみる。するとこんなくだりが見つかった。

人間はみな、不幸なものを憎んでいる。どんな生きものよりもみじめなわたしが、憎まれなくちゃいけないわけだ

宍戸儀一訳

おお、まさにこれではないか。
ただこの文章は小説の中盤、半分よりもまだ前にある。
最後に言ったというには、ずいぶん無理があるのである。

どうやら怪物の最後のセリフと言いながら、脚本家はずいぶん雑に途中から一文を引っ張ってきたようだ。
いや、雑というのは失礼かもしれない。確かに内容的に、この一節は作品の胆だということは間違いない。
もしかしたら、熟慮の上、これが怪物の言いたかったことだ、という意味で、どうしても持ってきたかったと考えるのが妥当かもしれない。

結論として、わたしの記憶は概ね正しかったようだ。
もちろん細かい語句がどうであったかは、確かめる術がない。
ただ内容的にここまで符合している以上、ほぼ同じような放送がなされたと考えて、間違いないのだろう。

こうしてわたしの長年のモヤモヤは、解消されたのだが、それでもなぜこの時にかぎり、一聞でこれを暗記できたのか、それは謎のままである。
今の人間から見たら少々読みにくく、こけおどしにも感じるこの小説が、実は人間の本質に迫る部分を持っていて、それゆえ現在まで生き残っている。日本の一介の中学生にも届いてしまう、すなわち名作であるという、証左なのかもしれない。

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